山吉新八

江戸時代前期の武士。「赤穂事件」で知られる吉良上野介義央の家臣で、赤穂浪士四十七士による吉良邸討ち入りの際、もっとも活躍した剣客といわれる。父は米沢藩上杉家の家臣。新八は吉良上野介の孫ながら養子として上杉家から吉良家に入った吉良義周の小姓となり、江戸の吉良邸で仕えた。記録によれば、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの際、3人の浪士を相手に戦い、槍で突かれたり顔を斬られたりしながらも奮戦し、さらにまた別の浪士を相手に奮戦、再び斬られ倒れたが一命を取り留めたといわれる。事件後、吉良家も改易となり、吉良義周は信濃国諏訪藩(現・長野県諏訪市)にお預けとなったが、新八は義周に従い、義周が21歳の若さで死ぬまで誠実に仕えた。その後、米沢に戻り米沢藩上杉家に再仕官した。墓所は山形県米沢市城南にある照陽寺。なお、子孫には暗殺直前の大久保利通に面会した福島県県令・山吉盛典がいる。
反応