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江戸時代前期から中期の画家、俳人。本姓は藤原、多賀。幼名は猪三郎、次右衛門、助之進。諱は安雄のち信香。字は君受。俳号は暁雲(ぎょううん)、狂雲堂、夕寥(せきりょう)。画号はほかに北窓翁(ほくそうおう)、翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)など。伊勢国亀山藩の侍医・多賀伯庵の子として京にて生まれ、のち一家で江戸へ移住した。若い頃から画才にあふれ狩野安信に入門し、「多賀朝湖」の名で絵を描いたが、ほどなく破門されたという(理由は不明)。絵師として腕をふるう一方、「暁雲」の号で俳諧に親しみ、俳聖と呼ばれた松尾芭蕉やその弟子・宝井其角らと親交を持ち、俳人としてもその名を知られるようになっていった。また、吉原にも通う遊び人で、「和応(央)」の通名で幇間(太鼓もち)のようなこともしていたといわれ、その芸は非常に愉快で見事だったという。ところが、1693年(元禄6)、一蝶は入牢することに。理由は不明。2ヵ月後に釈放されたが、1698年(元禄11)、再び入牢、今度は三宅島へ流罪となった。配流先でも一蝶は江戸から仕送りされる限られた画材で絵を描き続けた。江戸を想い、江戸の方向へ机を向けて絵を描いていたため「北窓翁」と呼ばれたという。過酷で孤独な環境にありながら一蝶は、「四季日待図巻」「吉原風俗図巻」「布晒舞図」「松風村雨図」など多くの作品を描いた。島民の求めに応じ天神や七福神の絵を描き生活の糧にしたという。この時期に描かれた作品は「島一蝶」と呼ばれる。また、随筆『朝清水記』も記している。1709年(宝永6)、5代将軍・綱吉の死による将軍代替わりの大赦により一蝶も許され、12年ぶりに江戸へ戻った。「英一蝶」を名乗るようになったのはこの頃からである。老境に入っていた一蝶だが、制作意欲はいよいよ増し、市井に生きる人々を活写する人気絵師として数々の大作を世に送り出した。また、吉原遊びも復活し、豪商・紀伊國屋文左衛門や奈良屋茂左衛門らと豪遊したという逸話も残る。73歳で他界。辞世の句は「まぎらはず浮世の業の色どりも有とて月の薄墨の空」。墓所は東京都港区高輪にある承教寺。一蝶の作品は非常に人気が高く、贋作が多いことでも有名。

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