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江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五は通称で、名は忠雄(ただお)。家紋は丸に三盛亀甲花菱。実弟・小野寺幸右衛門、伯父・小野寺十内も義士として討ち入りに参加している。首は太くて短く、あばた面であったが、「子葉」の俳号を持つ俳人で、茶道や和歌、国文にも通じる文雅の士だった。平安時代から続く名家・大高家に生まれ、父の死後家督を継ぐと赤穂藩主・浅野内匠頭長矩に仕えた。主君・長矩が刃傷事件を起こした時、同行していた源五も江戸にいたが、凶報を知るや赤穂に戻り、以後、大石内蔵助のもっとも信頼する同志のひとりとして活躍した。その信頼のあつさは、江戸にいる急進派の鎮撫や「神文返し」の使者といった非常に重要な局面で源五が派遣されていることからもわかる。江戸では「脇屋新兵衛」の変名で町人になりすまし、俳人としての縁から吉良家出入の茶人・山田宗偏に入門すると、吉良邸で12月14日に茶会が開かれるという重要な情報を入手することに成功、討ち入り決行日の決定に重要な役割を果たした。討ち入りに際しては表門隊に属し、大太刀を武器に奮戦、討ち入り後、伊予国松山藩の松平家屋敷にお預けとなり、のち切腹。辞世の句は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」。墓所は主君・浅野内匠頭長矩や赤穂浪士たちと同じ高輪の泉岳寺。源五の著作として、主君・長矩の参勤交代に同行した時の紀行文『丁丑紀行』、俳諧集『二ツの竹』が有名。また、俳人として知られた源五は松尾芭蕉の高弟・宝井其角と交流があり、討ち入り前夜、源吾と出会い、其角がはなむけとして「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠み、源五が「あした待たるるその宝船」と返し討ち入りに向かった、というものがある(忠臣蔵の外伝にあたる歌舞伎の演目『松浦の太鼓』より)。

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