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黄祖といい、字も出身地も不明である。子は黄射がいる。191年、襄陽において孫堅と争い、黄祖の部下呂公が孫堅を射殺した。このため、孫堅の子、孫策、孫権から敵仇として紛争状態となった。のちに、黄祖は江夏太守となった。199年、劉勲を破った孫策は、その兵二千余人と舟千艘を手に入れ、夏口に黄祖を攻撃して大勝した。孫策は、劉表の従子の劉虎以下二万余の首を斬り、溺死させた者一万余、六千余艘の軍船を手に入れた。当時、才能を評価されていたが傲慢ゆえに煙たがれていた禰衡がいた。子の黄射が招いた禰衡を最初は厚遇していたが、後に禰衡の傲慢さが黄祖の怒りに触れ、黄祖は彼を殺害した。200年、孫策が亡くなり、後を孫権が継いだ。203年、孫権は、黄祖の水軍を破った。この戦いで、後に呉の将軍として大活躍する甘寧が、黄祖の陣にいた。かれは得意の弓で、孫権の将軍凌操を射殺して、自軍の潰乱を救った。しかし黄祖は甘寧を「たかだ江賊」と見くびって重用しなかった。これを哀れに思った黄祖の都督の蘇飛の情けで、甘寧は長江を下って孫権に身を寄せた。208年、孫権は再び黄祖を征伐した。黄祖は二隻の蒙衝を左右に並べて夏口を守ろうとした。船は矴で固定し、千人の兵を配置して弩を乱射した。董襲と凌統は各百人の決死隊を募って攻撃、矴網を切った。蒙衝は流れ出し、これに乗じて孫権の兵は大挙して攻め込んだ。黄祖は慌てふためき、身一つでにげるところを騎兵の馮則が襲いかかり、首を奪った。彼の首は晒され、孫権は十七年後に父の仇を討つことが出来た。黄祖はかなり高齢だった。甘寧が孫権に会った時、甘寧は「彼は年老いて耄碌が甚だしく、側近に欺されていいようにされており、戦備も整えず、農事を怠り、軍法も守られていない」と語っている。一兵士に過ぎない馮則の名は、黄祖を斬ったことで『呉書』に名を記された。また、潘璋の司馬の馬忠は関羽を捕らえたことで名を知られ、毌丘倹を射殺した張属は庶民だったが『魏書』に名を残した。孫策が劉勲と黄祖を破ったときの戦果について、国淵は戦果を十倍に誇張する当時の風潮があるとして、誇張している可能性が高い。黄祖は、たびたび『呉書』の孫堅・孫策・孫権・太史慈・孫賁・周瑜・魯粛・韓当・周泰・董襲・甘寧・凌統・徐盛・虞翻・胡綜・呉範、それに孫権徐夫人の伝で登場している。『三国志演義』第三十九回では、甘寧が黄祖を討ち取ったとあるのは、羅漢中の創作である。

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