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劉琦といい、兗州山陽郡の人である。父は劉表、異母弟は劉琮がいる。劉表には劉琦と劉琮という二人の子がいた。劉表は初め、劉琦の容貌が自分に似ているところから甚だこれを愛していた。しかし、後に次男の劉琮が劉表の後妻蔡氏の姪を娶ると、蔡氏は劉琮を愛して劉琦を疎んじ、劉琮を褒める一方、劉琦を誹謗する言葉を日々劉表に吹き込んだ。劉表は後妻への愛に耽溺していたので、これを信じてしまった。蔡氏の弟蔡瑁や、彼の外甥の張允も劉琮に加担した。突然、劉琦の立場は危うくなった。諸葛亮の妻黄氏は、蔡氏の姉と黄承彦の間に生まれ、劉琦とは系譜上の従姉弟にあった。妻を介して劉琦と諸葛亮は義理の従兄弟同士になるので、劉琦は諸葛亮に対策を求めた。諸葛亮は、他家の内紛に立ち入るのは好まなかったが、劉琦の懇望に負けて「君は申生が内に在って危うく、重耳が外に在って安全だったのをご存じなかったか」と言った。劉琦はその意味を覚り、ひそかに都を離れる計画を練った。折しも江夏を守る黄祖が孫権に殺された事件があった。劉琦は願い出て江夏太守として赴任した。申生は春秋時代の晋の太子だったが、驪姫に讒言されて縊死した。弟の重耳はこれを見て国外に脱出、父の献公が死去すると国に戻り、後に覇王となった。これが晋の文公である。この例を引いて孔明は骨肉の間の争いを避けさせた。208年7月、曹操の荊州征討が間近に迫る折りしも、劉表は病状が重くなった。孝心厚い劉琦が江夏から襄陽に駆けつけた。張允らは父子の感情が旧に戻り、劉琦に後を託そうとしたら一大事だと恐れた。そこで「将軍は君に江夏を守る重任を与えられた。その任を棄てて勝手にお出になると、将軍はお怒りになて病が重くなられるよう。これは孝敬の道ではありません」と言って会わせなかった。劉琦は涙を流して立ち去り、人々はこれを聞いて悼ましい思いをした。劉琦はついに後嗣となり、劉琦に候の印綬を授けると、劉琦はそれを叩きつけて怒った。曹操の軍勢が新野に到達すると、劉琦は急いで任地に戻った。樊城にいた劉備は、曹操軍が宛に迫るまでこれを知らず、急いで諸葛亮・張飛・趙雲らと江陵をめざし、関羽は数百艘の船で漢水を下り、同じく江陵に向かった。劉備一行は当陽長阪で曹操軍に追いつかれて大敗し、江陵行きを諦めて漢水の畔に出た。一行はここで関羽の水軍と出偶い、襄陽から江夏に戻る途中の劉琦の軍勢と出会った。この後、諸葛亮が柴桑まで下って孫権と会見し、劉備と孫権が連合して曹操に当たることになった。そして11月、赤壁において曹操軍を大いに破った。その大勝利のあと、劉備は武陵・長沙・桂陽・零陵の荊州南部四郡を平定、上表して劉琦を荊州刺史としたが、劉琦は翌年に病死した。享年不明。『三国志演義』では、諸葛亮からは「琦君」と呼ばれ、柔弱な人物に描かれてはいるものの、聡明を謳われ、また親孝行者でもあり、劉表から愛され、劉琮とも決して仲が悪く描かれてはいない。だが、劉琮の生母の蔡氏やその弟の蔡瑁と張允らに敵視されて讒言を受け、また生来から病弱で穏健だったため、自ら劉表の後継者を辞退する。それでも身の危険を感じたため、諸葛亮の取りなしにより江夏に移り住むことになっている。さらに父の危篤を聞いて江夏から襄陽に駆けつけるも、蔡瑁に「江夏の守備という重大な持ち場を離れてこちらに来るとは何事か。速やかにお帰り下さい。」と言われて城門を開けてもらえず、ひとしきり大声を上げて泣いた後、父の死に目に逢えずに江夏へ帰っている。長坂の戦いでは曹操に追われた劉備を救うべく、関羽と共に援軍として登場し、劉備軍を救うなどの活躍も見せている。赤壁の戦いの後は、正史同様に劉表の後を継ぐ荊州の主として、劉備・諸葛亮らに盛り立てられるが、病弱の体で酒に溺れたため、病没してしまう。柴田錬三郎の『三国志』では、劉琦は劉表の弟と設定されている。NHK人形劇『人形劇三国志』では、周瑜の荊州をよこせという脅しに屈せず、死ぬ前に劉備を新しい荊州の主にすることを遺言したりと、意志の強い劉琦が描かれている。

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