伊達慶邦

仙台藩第13代藩主。戊辰最大の激戦である東北戦争では米沢藩主・上杉斉憲とともに上杉奥羽越列藩同盟を樹立。明治新政府軍を相手に激烈な抵抗を試みる。

甘粕継成

米沢藩士。代々の重臣。戊辰戦争では参謀として新政府軍と戦う。

上杉斉憲

米沢藩の第12代藩主。藩政改革に成功し、250年ぶりに加増(3万石)を受けた。このため、歴史上屈指の名君である祖先・上杉鷹山になぞらえる声も出た。戊辰戦争では、仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。(…

平野国臣

通称は次郎、巳之吉。諱は種言、種徳。 真木和泉や清河八郎とともに、尊王攘夷派のアジテーターとして大きな存在感を放つ。

黒田長溥

福岡藩第11代藩主。島津斉彬の大叔父。年の近い島津斉彬とは兄弟のような仲だったといわれる。斉彬と同じく開明派であり、「蘭癖大名」と陰口を叩かれながらも、近代化路線を推進。福岡藩内の勤皇派大粛清(乙丑の変、140名以上逮捕…

小笠原忠忱

小倉藩第10代藩主。最後の藩主である。近藩である長州藩と幕府間で勃発した第2次長州征伐(四境戦争)の前年に、父・忠幹が死去。忠忱は当時わずか4歳であったため、近隣の政情が落ち着く2年後まで、父の死は秘された。第2次長州征…

辻将曹

広島藩士。本名は辻維岳(つじいがく)。官僚。明治政府では参与。藩内では改革派として、幕末に窮乏していた藩財政の再建などを藩主に献言。幾度も改革を試みるが、いずれも保守派の抵抗にあい実現に至らなかった。しかし、時勢への洞察…

池田慶政

備前国岡山藩の第8代藩主。破産状態であった藩財政の改革に着手。また洋式への軍制改革にも着手するなど、先見の明があった。 しかし、苛烈な改革の実行に、藩内は大混乱。改革は失敗に終わった。

伊達宗城

伊予国宇和島藩の第8代藩主。先見の明と実行力を伴う名君。幕末の四賢候の一人。(ほか、福井藩・松平春嶽、土佐藩・山内容堂、薩摩藩・島津斉彬)。先代の伊達宗紀が建て直した藩財政を礎に、藩政および軍制を改革。人材登用にも長けて…

伊達宗紀

伊予国宇和島藩の第7代藩主。借金が膨らみ破産状態にあった藩財政の改革に着手。200年分割払いや借金自体の強制放棄などを貸し手である商人に約束させる。強引な手ではあるが、藩財政を建て直すことに成功。後継者である伊達宗城が断…

藤堂監物

津藩士。明治後の改名「長谷部一」としても有名。新政府軍として東征に参加。彰義隊との戦いや会津戦争で活躍。明治3年、未遂に終わったが、クーデターを計画。旧藩主である藤堂高猷が行なった平民による軍編成に不満を持ったためであっ…

長野主膳

彦根藩出身。井伊直弼の参謀。世紀の粛清である安政の大獄を進言した。

井伊直憲

彦根藩の第16代藩主。最後の藩主である。井伊直弼の次男。

松平定敬

桑名藩第4代藩主。京都所司代。京都守護職であった兄の松平容保とともに、荒れる京都の治安維持につとめた。

小原鉄心

大垣藩の家老。藩主である戸田氏正の方針を受け、西洋文明の導入や大砲の鋳造など、藩政改革を推し進める。

亀井茲監

石見津和野藩の第11代藩主。最後の藩主である。地理的に隣に位置する長州藩とは親交が深いため、佐幕派と尊王派の間で政治的姿勢が揺れ動いた。長州征伐をきっかけに、長州藩寄りとなる。

河上彦斎

異名は「人斬り彦斎」。いわゆる幕末の四大人斬りの一人として知られる。(四大人斬りはほか、土佐藩の岡田以蔵、薩摩藩の中村半次郎、薩摩藩の田中新兵衛) 佐久間象山を斬ったことで知られるが、実はこの暗殺以降、人斬りを行なってい…

宮部鼎蔵

熊本藩士。吉田松陰の親友。池田屋で新撰組に襲撃された20数人の一人。自刃して果てた。

横井小楠

熊本藩士。のち、松平春嶽の政治顧問として、福井藩の藩政改革に取り組む。その実績を買われ、幕政改革にも携わる。幕政改革の道筋を示した「国是七条」を建議するなど、国家構想といった大きな絵柄を描くことの出来る幕末随一のプランナ…

細川斉護

熊本藩藩主。破産状態にあった藩財政の改革に取り組むが、横井小楠を中心とする改革派と松井佐渡を中心とする保守派の対立がかえって深くなってしまう。志なかばで死去。

橋本左内

福井藩士。適塾で医学を学ぶ。水戸藩の藤田東湖や薩摩藩の西郷隆盛との交流。松平春嶽の側近として活躍。安政の大獄により斬首。15歳の時に、自らを奮い立たせるために志を記した『啓発録』は、今でも読み継がれている。

由利公正

福井藩士。ゆりこうせい、とも読む。坂本龍馬と親交があり、福井藩の財政を建て直した手腕を買われ、明治政府へ参画。

松平春嶽

越前福井藩藩主。幕末の四賢侯の一人。

会沢正志斎

水戸藩の藩校・弘道館の初代教授頭取であり、水戸学の代表的思想家である。 会沢が唱えた神道と水戸学を合わせた大義名分論は、吉田松陰らに大きな影響を与えた。

藤田小四郎

水戸天狗党の首領格。 水戸の三田のひとり・藤田東湖の息子。水戸藩という土地柄、もともと尊王攘夷思想であったが、京都で長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞と接するうちに、ますます傾倒。 最後は、水戸の三田のひとり・武田耕雲斎の担ぎ上…

武田耕雲斎

いわゆる水戸の三田のひとり。(ほか、藤田東湖、戸田忠太夫) 800名という一大勢力を誇った天狗党の首領である。しかし、武田耕雲斎自身は党を結成した藩の若手(藤田東湖の息子藤田小四郎ら)を諌める立場をとっていた。結局、彼ら…

徳川斉昭

水戸藩藩主。徳川慶喜の実父。藩政改革に成功した名君。また、徳川斉昭みずからがプランニングし造設した偕楽園は、いまでも梅の公園として名高く、日本三名園にかぞえられている(ほか、金沢の兼六園、岡山の後楽園)。

島義勇

佐賀藩士。佐賀の七賢人の一人。明治維新後、大久保利通が推進する政府の政策に反発。江藤新平とともに佐賀の乱を起こす。最後は捕らえられ斬首。

佐野常民

佐賀藩士。佐賀の七賢人の一人。適塾では大村益次郎と交流する。「日本赤十字社」の初代社長としても知られる。佐野が「日本赤十字社」を創設したきっかけは西南戦争での救護活動であった。

江藤新平

佐賀藩士。明治維新後は、佐賀の乱を島義勇とともに起こす。

大隈重信

佐賀藩士。東京専門学校(現早稲田大学)の創立者。

鍋島閑叟

佐賀藩藩主。正式な名は鍋島直正(なべしまなおまさ)。幕末において、幕府/朝廷/公武合体のいずれとも距離を置き、軍事力を磨いた。真意がみえないまま、軍事力を東洋一と呼ばれるまで高め続けたため、ついた異名は「肥前の妖怪」。

岩崎喜勢

三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の妻。弥太郎との間に一男二女をもうけ、家庭をよく守っていた。

岩崎弥次郎

土佐藩の地下浪人である。 三菱財閥創業者・岩崎弥太郎および二代目総帥・岩崎弥之助の父であり、三代目総帥・岩崎久弥、四代目総帥・岩崎小弥太の祖父にあたる。

坂本春猪

坂本権平の長女。つまり坂本龍馬の姪にあたる。歳が8つしか離れていない龍馬とは 自由民権運動家である兄妹のような間柄で、龍馬からも西洋のおしろいといった土産物をよく贈られていて、可愛がられていた。 のち、自由民権運動家であ…

坂本権平

諱は直方。坂本龍馬の実の兄。父母を幼い時に亡くしているため、21歳離れている龍馬には父のように接したと伝えられる。 龍馬の土佐藩脱藩には最後まで強く反対をしていたが、脱藩後は資金援助をするなど理解を示していた。

武市富

土佐勤王党の党首・武市半平太の妻。1849年に嫁ぐ。 半平太と富は非常に仲の良い夫婦として知られ、現在でも数々の逸話が残っている。なかでも、獄中の半平太の辛さを分かち合うために、自ら板の間で寝て、真冬でも布団を使わずに過…

吉村寅太郎

虎太郎とも書く。土佐藩。土佐勤王党出身。 間崎哲馬に師事し、その影響を強く受け尊王思想となる。 土佐勤王党加盟後、久坂玄瑞と接触し長州藩の伏見挙兵計画という極秘情報を入手。土佐勤王党の武市半平太に足並みを揃えるよう説くが…

ジョン万次郎

土佐藩出身。本名は中濱萬次郎(なかのはままんじろう)。ジョン万次郎という呼称は井伏鱒二が小説の題名として使用したことから、定着した。幕末では、通訳や教師として活躍。

中島信行

土佐藩士。同藩出身者のもとでキャリアを積んでいく。武市半平太の土佐勤王党→坂本龍馬の海援隊→中岡慎太郎の陸援隊。

北添佶摩

土佐藩出身。同じ土佐出身だった望月亀弥太らと京都にて公卿や長州藩とのパイプを確立していた最中、池田屋事件に遭遇。新選組によって殺害された。一説には、池田屋事件では殺害されておらず、自害したといわれている。

望月亀弥太

土佐藩士。武市半平太が結成した土佐勤王党の一人。有名な池田屋事件において、現場にいた20数名の一人。新撰組が取り囲んだ池田屋を脱出、なんとか長州藩邸の近くまで辿りついたが、幕府方諸藩兵によって取り囲まれて自刃した。

池内蔵太

土佐藩士。土佐勤王党の一人。のち、坂本龍馬が結成した亀山社中に入社。勤務で回航していた船が台風に遭遇。その若すぎる死を、坂本龍馬は大いに嘆いたと言われる。龍馬曰く「わしより先に死ぬ奴があるか。わしより生きれば、わし亡き後…

近藤長次郎

土佐の商家出身。饅頭屋の倅であることから、ついたあだ名は「饅頭屋長次郎」。別名は上杉宋次郎。同藩の岩崎弥太郎や坂本龍馬との親交が深い。坂本龍馬が設立した亀山社中にも参加。特に商売の才覚があり、早くから山内容堂にも認められ…

平井収二郎

土佐藩士。武市半平太率いる土佐勤王党の一人。山内容堂による粛清では、最初の犠牲者となる。(ほか同時に、間崎哲馬、弘瀬健太)

那須信吾

土佐藩士。吉田東洋、暗殺犯の一人。田中光顕の叔父。

土方久元

土佐藩士。土佐勤王党の一人。「七卿落ち」の際には、三条実美らとともに、長州に下った。

間崎哲馬

土佐藩士。正式名は、間崎則弘。土佐勤王党の一員として、武市半平太からの右腕として活躍。山内容堂による勤王党の粛清では、第一の犠牲者として平井収二郎、弘瀬健太と共に切腹。

田中光顕

土佐藩家老。幕末の動乱期に、武市半平太の土佐勤王党→高杉晋作の弟子→中岡慎太郎の陸援隊に参加するなど、その活動は華々しい。