趙雲

趙 雲(ちょう うん、 拼音: Zhào Yún、? – 229年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍。字は子龍(しりゅう)。冀州常山郡真定県(現在の河北省石家荘市正定県)の人。封号は永昌亭侯。…

満寵伯寧まんちょうはくねい

満寵、字を伯寧といい、山陽郡昌邑県の人である。子は満偉、満炳、孫は満長武、満奮がいる。十八歳のとき、郡の督郵となった。当時郡内の李朔らはそれぞれ私兵をかかえ、平民に被害を与えていたため、太守は満寵にとりしまらせた。李朔ら…

郭淮伯済かくわいはくさい

郭淮、字を伯済といい、太原軍陽曲県の人である。父は郭縕、弟は郭配、郭鎮、子は郭統、孫は郭正、甥は郭奕らがいる。建安年間に孝廉に推挙され、平原府の丞に任命された。曹丕は五官将になると、淮水を召して門下賊曹に任命したが、丞相…

司馬昭子上しばしょうしじょう

司馬昭、字を子上といい、河内郡温県の人である。父は司馬懿、兄は司馬昭、弟は司馬幹、母は張春華、子は司馬炎、司馬攸らがいる。255年、兄の司馬師が死去すると、司馬昭は同じく大将軍・侍中・都督中外諸軍事・録尚書事となった。兄…

司馬師子元しばししげん

司馬師、字を子元といい、河内郡温県の出身である。父は司馬懿、弟は司馬昭、司馬幹、母は張春華である。234年、司馬師は夏侯尚の娘の夏侯徽を妻に迎えたが、父の司馬懿に殺された。司馬懿の野心に気づいたのが原因で殺害されたとされ…

司馬懿仲達しばいちゅうたつ

司馬懿、字を仲達といい、河内郡温県孝敬里の出身である。司馬防の次子、子は司馬師、司馬昭、孫に司馬炎、司馬攸らがいる。司馬氏の祖は、高陽の子重黎から出た。重黎は、軍事職である祝融に就いた。唐王朝、虞王朝、夏王朝、商王朝と経…

李儒文優りじゅぶんゆう

李儒、字を文優といい、司隷馮翊郡郃陽県の人である。184年、黄巾の賊が反乱してから郃陽の民衆がこれに呼応して反逆した。県令曹全がこれらを討って鎮圧し、県の名士らを起用したので李儒らは召しだされた。185年10月、李儒は、…

文醜ぶんしゅう

文醜といい、字も出身地も不明である。199年、麾下の将軍として顔良とともに並ぶようになった。200年、袁紹は官渡までに兵を進めて、曹操軍と対峙して睨み合った。白馬において顔良が劉延を攻撃したが、荀攸の策によって背後を突か…

張導景明ちょうどうけいめい

張導、字を景明といい、河内郡修武の人である。180年、鉅鹿の太守となった。漳水が渡し場で氾濫して農耕ができなくなったとき、張導は地図を描いて水路の流れ止めを調査し、郡丞彭参、郡掾馬道嵩らとともに堤防を築いてこれを防がせた…

武安国ぶあんこく

武安国といい、三国志演義に登場する架空の人物である。反董卓連合軍が結成されて虎牢関へ孔融と赴くと、得意とする鉄槌をもって参戦した。呂布と一騎討ちを行い、10余合打ち合った末に片腕を切り落とされた。横山光輝三国志やコーエー…

荀諶友若じゅんしんゆうじゃく

荀諶、字を友若といい、豫州潁川郡潁陰県の人である。父は荀緄、兄は荀衍、弟は荀彧、子は荀閎らがいる。冀州の太守韓馥の幕僚、もしくは賓客として仕えていた。北平の太守公孫瓚が冀州に攻めてくるとの知らせが袁紹から届き、協議のため…

樊稠はんちゅう

樊稠といい、涼州の人である。董卓の配下となり、董卓が中央政権を握ると、軍事において徐栄、胡軫、牛輔らと同じ待遇を受けた。192年、董卓が呂布と王允らに殺害されると、李傕につき従って長安を攻撃し、王允らを処刑した。李傕と共…

楊定整修ようていせいしゅう

楊定、字を整修といい、涼州の人である。董卓の配下となった。192年、呂布と王允らが董卓を殺害すると、胡軫、徐栄らとともに王允に従った。しかし王允の傲慢な態度に不満を抱いていた。李傕、郭汜らが長安に攻め込んだとき、胡軫、徐…

胡軫文才こしんぶんさい

胡軫、字を文才といい、涼州の人である。董卓の配下となって、涼州で辺章・韓遂・馬騰らが羌・胡の協力を得て反乱を起こすと、付き従ってこれらを大いに破った。董卓が中央政権を握ると、陳郡太守に任じられた。191年、孫堅が陽人まで…

徐栄じょえい

徐栄といい、幽州玄菟郡の人である。董卓の配下となり中郎将となった。董卓は、名士を優遇して任用したとき、徐栄は、冀州刺史を追われた公孫度を遼東太守に推挙した。190年、董卓征討の義勇軍が起こると、徐栄は李蒙とともに豫州へ向…

華雄かゆう

華雄といい、字も出身地も不明である。董卓征討の義勇軍が起こると、華雄は呂布とともに胡軫の配下として従軍し、孫堅の討伐に向かった。胡軫と呂布の仲が悪かった。呂布は、偽りの伝令によって胡軫は混乱し敗れた。華雄は陽人において戦…

笮融さくゆう

笮融といい、丹楊郡の人である。初め数百人を集めて長江を渡り、徐州の陶謙に身を寄せた。笮融に広陵・彭城の物資運漕の監督をさせたところ、勝って気ままにふるまって人を殺し、広陵・下邳・彭城三郡の貢納品を自分の物にして資力を蓄え…

孫崇賓碩そんすうひんせき

孫崇は字を賓碩といい、北海郡安丘の人である。家はもともと、それほど豊かではなかった。後漢の桓帝の時代、中常侍の唐衡・徐璜・具援らは、桓帝と謀って大将軍梁冀を誅した功によって同日に候に封じられ、その権威は天子並みになった。…

許貢きょこう

許貢といい、字も出身地も不明である。許貢は初め、呉郡都尉となった。その後、昇進して呉郡太守となった。193年、袁術は曹操にしばしば破れたため、淮水を渡って九江に逃げ、揚州刺吏陳温を殺して州を支配し、寿春に治所を置いた。朝…

劉琦りゅうき

劉琦といい、兗州山陽郡の人である。父は劉表、異母弟は劉琮がいる。劉表には劉琦と劉琮という二人の子がいた。劉表は初め、劉琦の容貌が自分に似ているところから甚だこれを愛していた。しかし、後に次男の劉琮が劉表の後妻蔡氏の姪を娶…

黄祖こうそ

黄祖といい、字も出身地も不明である。子は黄射がいる。191年、襄陽において孫堅と争い、黄祖の部下呂公が孫堅を射殺した。このため、孫堅の子、孫策、孫権から敵仇として紛争状態となった。のちに、黄祖は江夏太守となった。199年…

陳登元龍ちんとうげんりゅう

陳登、字を元龍という。父は陳珪、子は陳粛がいる。25歳で孝廉に推挙され、東陽の県長に任命され、人々を慈しんだ。後に徐州の牧陶謙は上表して典農校尉とした。陳登はその土地に適した産物を調べ、堀を掘って潅漑の利をもたらしたため…

陳珪漢瑜ちんけいかんゆ

陳珪、字を漢瑜といい、徐州下邳の人である。従父は陳球、従兄弟は陳瑀、陳琮、子は陳応、陳登らがいる。陳珪と袁術は、互いに三公を出した家柄の子弟同士だったので、若いころから往来があった。193年、袁術は曹操・袁紹の連合軍に敗…

郭図公則かくとこうそく

郭図、字を公則といい、 潁川郡の人である。潁川太守隠脩は賢人の顕彰と英俊の抜擢を自分の務めとしていた。隠脩の部下たち、功曹の鍾繇・主簿の荀彧・孝廉の荀攸、それに刑吏の郭図らは皆、その任用による者たちだった。その後、荀諶・…

審配正南しんぱいせいなん

審配、字を正南といい、魏郡陰安県の人である。甥は審栄がいる。若いころから忠裂な志を持ち、意気を壮んだった。審配は初め、田豊・沮授・張郃らとともに冀州の牧韓馥を主で仰いでいた。191年、韓馥は脅されて袁紹に州牧を譲ると、審…

逢紀元図ほうきげんと

逢紀、字を元図といい、荊州南陽郡の人である。189年、董卓の暴戻に反撥した袁紹が冀州に逃亡した時、逢紀は許攸とともにこれに随った。袁紹は彼が聡明で計略に長じていたので深く信頼し、ともに旗挙げした。191年、袁紹麾下に審配…

麹義きくぎ

麹義といい、字も出身地も不明である。当初、韓馥の部将であったが、袁紹が冀州の牧となって沮授らとともに袁紹の配下となった。190年、麹義の兵は勇猛果敢で、羌族の戦法を熟知して巧みとし、袁紹を裏切った於夫羅を鄴の南で撃ち破っ…

淳于瓊仲簡じゅんうけいちゅうかん

淳于瓊、字を仲簡といい、豫州潁川郡の人である。188年10月、大将軍何進の上奏にて、霊帝自ら平楽観で西園八校尉を抜擢して任命した。曹操、袁紹らも含めて淳于瓊が佐軍校尉となった。霊帝が崩御すると、董卓が専横して政権を握った…

沮授そじゅ

沮授といい、冀州広平郡の人である。子は沮鵠、弟は沮宗がいる。若い頃から大志があって、権謀に富んでいた。冀州の別駕となり、茂才に推挙されて二県の県令を歴任し、後に韓馥の別駕となり、騎都尉に任命された。191年、韓馥はこの時…

田豊元皓でんほうげんこう

田豊、字を元皓といい、鉅鹿郡の人とも渤海郡の人ともいわれる。初め太尉府に召され、茂才に挙げられて侍御史となったが、朝廷では宦官が跋扈し、賢人が害を被っていたので、官を棄てて家に帰った。190年、袁紹は董卓征討の義兵を挙げ…

顔良がんりょう

顔良といい、字も出身地も不明である。袁紹の配下となって、199年、麾下の将軍として文醜とともに並ぶようになった。200年1月、曹操自ら劉備を攻撃して大敗させ、さらに下邳の進攻して関羽を擒にした。敗れた劉備は袁紹に身を寄せ…

鮑出文才ほうしゅつぶんさい

鮑出、字を文才といい、京兆郡新豊の人である。兄は鮑初、鮑雅、弟は鮑成らがいる。若いころは遊俠の群れに身を置いていた。194年から5年、三輔は董卓・李傕の乱の余波が収まらず、乱れていた。鮑出は老母と兄弟五人で新豊県で暮らし…

董承とうじょう

董承といい、字も出身地も不明である。董承は牛輔の部曲として仕えていた。193年、董卓が殺されると、李傕・郭汜ら部将たちは遠征先から引き還して長安に入り、第二の董卓として暴威を揮った。彼らはやがて争いを始めたが、これも董卓…

高順こうじゅん

高順は字も出身地も不明である。どんな経緯があって呂布の部下になったのか不明である。192年、董卓を殺した呂布は、袁術・袁紹・張楊らの諸侯も間を転転とした挙句、194年、張邈・陳宮に迎えられて兗州を占拠、自ら州牧を称した。…

陳宮公台ちんきゅうこうだい

陳宮、字を公台といい、東郡武陽県の人である。剛直で気迫にあふれた人柄で、若い頃から著名な人々と交わりを結んだ。陳宮は天下の動乱が始まると曹操に随った。192年、兗州刺史劉岱が黄巾に敗れて戦死すると、「覇王の業」のために兗…

王儁子文おうしゅんしぶん

王儁、字を子文といい、汝南郡の人である。彼は若いころ、すでに范滂・岑晊ら清流派の人々からその器量を認められていた。曹操は布衣だった時代、特に王儁に親しんだ。王儁は曹操には治世の才能があると称賛していた。袁紹・袁術兄弟の母…

何顒伯求かぎょうはくきゅう

何顒は字を伯求といい、南陽郡襄邑の人である。若いころ、郭泰・賈彪らと洛陽に遊学し、太学で名を挙げた。これによって朝廷の名臣である太傅の陳蕃・司隷校尉のの李膺らは、皆何顒と深くつきあった。党錮の事件が起きた時、何顒の名もそ…

伍孚徳瑜ごふとくゆ

伍孚は字を徳瑜といい、汝南郡呉房の人である。若い頃から高い節義を持っており、郡に仕えて門下書左になった。伍孚の本邑の長が罪を犯したことがあった。汝南太守は伍孚に逮捕状を作成させ、配下の役人を派遣してこれを捕まえよと命じた…

牛輔ぎゅうほ

牛輔といい、字も出身地も不明である。董卓が中央で権力を掌握すると、女婿ということで重用され、中郎将に任じられた。190年2月、董卓が長安へ遷都したとき、牛輔は陝に駐屯して東方に備えた。この時に李傕・郭汜・張済らが牛輔の指…

鄭泰公業ていたいこうぎょう

鄭泰、字を公業といい、河南郡開封県の人である。代々、儒学者の家の子で、高祖父鄭衆、さらに鄭衆の父鄭興も学者として名が高かった。弟は鄭渾、子は鄭袤がいる。孝廉に推挙され、三府や宮中からも召されたが、みな応じなかった。霊帝が…

皇甫酈こうほれき

皇甫酈といい、安定郡朝那県の人である。伯父は皇甫嵩がいる。192年4月、董卓は王允・呂布の謀計が成功して殺害された。董卓は武将李傕・郭汜・樊稠・張済たちは折から陳留・頴川の諸県を攻撃していた。彼らは賈詡の進言に従ってただ…

橋瑁元偉きょうぼうげんい

橋瑁、字を元偉といい、梁国睢陽県の人である。橋玄の一族とされている。兗州太守刺史を努め、のちに東郡太守となった。189年、何進は中常侍と対立して、諸侯を集めたとき、橋瑁は命令に従って軍を進めて、成皋の地に駐屯させた。董卓…

蔡邕伯喈さいようはくかい

蔡邕は字を伯喈といい、陳留郡圉県の人である。子は蔡琰、従弟は蔡谷、外孫は羊祜、羊徽瑜らがいる。郡の著姓の子だった。若いころ、太傅の胡廣に師事した。辞章・数術を好み、また音律をよく解した。170年、司徒橋玄の府にまねかれ、…

臧洪子源ぞうこうしげん

臧洪、字を子源といい、広陵郡射陽県の人である。父は臧旻がいる。父の臧旻は、匈奴中郎将、中山太守、太原太守を歴任したが、各任地において名声をあげた。孝廉に推挙され、郎となった。当時、三署の郎から選んで、県長を任命するのが例…

盧植子幹ろしょくしかん

盧植、字を子幹といい、涿郡涿県の人である。子は盧毓らがいる。十五歳になった劉備が盧植の門を叩いたのは、同郷の縁があったからだった。劉備は公孫瓚と同門になり、後年、この縁を頼って盧植に身を寄せたことがあった。盧植は学問を終…

皇甫嵩義眞こうほすうぎしん

皇甫嵩、字を義眞といい、安定郡朝那県の人である。祖父は皇甫旗、父は皇甫節、子は皇甫堅、皇甫寿、曾孫は皇甫謐、伯父は皇甫規、甥は皇甫酈がいる。皇甫嵩は若いころから学問を志し、同時に弓馬の鍛錬に励んだ。初め、孝廉、茂才に挙げ…

朱儁公偉しゅしゅんこうい

朱儁は字を公偉といい、会稽郡上虞の人である。子は朱符、朱皓がいる。若い頃から学問を好み、172年頃には孝廉に推挙された。当時、交阯太守が組んで叛乱し、所在の郡県を攻破した。178年、朱儁は交阯刺史に任じられて五千の兵でこ…

孔伷公緒こうちゅうこうしょ

孔伷、字を公緒といい、陳留郡の人である。189年、大将軍何進と中常侍が争って、隙をみて董卓が中央政権を握ると、名士を優遇して任用し、周毖の奨めで孔伷は豫州刺史に任じられた。もともと董卓には不信感を抱いていて、忠実なふりを…

張超ちょうちょう

張超といい、東平郡寿張県の人である。兄は張邈がいる。広陵太守となって、臧洪、袁綏らといった名士を招いて任用した。190年、董卓が中央政権を握り、乱を起こすと、義勇軍が結成されて兄の張邈とともに参加した。この時、諸侯同盟の…

劉繇正禮りゅうようせいれい

劉繇、字を正禮といい、東莱郡牟平県の人である。漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭の直系、父は劉輿、叔父は劉寵、劉韙、兄は劉岱、子は劉基、劉鑠、劉尚らがいる。劉繇は十九歳のとき、叔父の劉韙が賊の人質となった。彼はそれを奪い返…