馬良季常ばりょうきじょう

馬良、字を季常といい、襄陽郡宜城県の人である。弟に馬謖、子に馬秉らがいる。五人兄弟で、いずれも秀才のほまれ高く、郷里ではこれを諺にして、「馬氏の五常(五人の秀れた兄弟。みな字に常がついていたので五常といった)、白眉(馬良…

法正孝直ほうせいこうちょく

法正、字を孝直といい、扶風郡の人である。祖父は法真、父は法衍。子に法バクがいる。建安の初年、天下は飢饉に見舞われ、法正は同郡の孟達とともに蜀に行き、劉璋のもとに身を寄せた。しばらくしてから新都の令となり、後に召されて軍議…

龐統士元ほうとうしげん

ホウ統(ホウは广=まだれに龍)、字を士元といい、襄陽郡の人である。弟にホウ林、子はホウ宏、従父にホウ徳公がいる。若いころ地味でもっさりしていたので、まだ評価する者がなかった。ホウ統は二十歳のとき、頴川の司馬徽に会いに行っ…

趙雲子龍ちょううんしりゅう

趙雲、字を子龍といい、常山郡真定県の人である。子は、趙統、趙広がいる。父兄は不明。身長は八尺あり、姿や顔つきがきわだってりっぱだった。郷里の郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫サンのもとに行った。そのころ、劉備も公孫…

黄忠漢升こうちゅうかんしょう

黄忠、字を漢升といい、南陽郡の人である。子は黄叙。荊州の牧、劉表は黄忠を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守らせた。曹操は荊州を撃ち破ると、かりに裨将軍の官につけ、そのまま元の任務を取り行わせ、長沙太守の…

馬超孟起ばちょうもうき

馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵県の人である。前漢の馬援の子孫。父は馬騰、弟に馬休、馬鉄、従兄弟に馬岱がいる。子は、馬秋、馬承。また、「反三国志」では、馬雲録という妹が登場している。父の馬騰は、辺章と韓遂らとともに西州で…

張飛益徳ちょうひえきとく

張飛、字を益徳といい、琢郡の人である。演義では字は翼徳。子は、張苞、張紹がいる。若いときに関羽とともに劉備に仕えた。関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。劉備が曹操に従って呂布を破り、ともに許に帰ると、曹操は張…

関羽雲長かんううんちょう

関羽は字を雲長という。もとの字は長生といい、河東郡解県の人である。本籍から琢県に出奔した。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。劉備が故郷で徒党を集めたと…

劉禅公嗣りゅうぜんこうし

207年、劉備が荊州新野に身を寄せていた際、側室甘氏の間に生まれた。208年に曹操が南下討伐軍を起こすと劉備軍は乱れる中、趙雲が大軍を突破して救出された。217年、劉備が益州と漢中を支配し漢中王になると太子となった。22…

諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が…

劉備玄徳りゅうびげんとく

琢(たく)郡琢県の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の…

陸凱敬風りくがいけいふう

陸凱、字を敬風といい、呉郡の人である。弟は陸胤、子は陸禕、丞相であった陸遜の一族に属し、その息子の世代にあたっている。黄武初年、永興や諸曁県の長をつとめて、それぞれの任地で治績を挙げた。建武都尉の官を授けられ、兵士をあず…

孫河伯海そんかはくかい

孫河、字を伯海といい、呉郡の人である。子は孫助、孫誼、孫桓、孫俊、甥は孫韶がいる。孫河は、もともとの姓は愈氏で、この愈氏も呉の人であった。孫策は愈河を寵愛し、孫の姓を賜わって、皇族の一人に加えた。孫堅の族子なのであったの…

孫韶公礼そんしょうこうれい

孫韶、字を公礼という。伯父は孫河、従弟は孫桓、子は孫楷、孫越、孫異、孫奕、孫恢がいる。孫韶は、年十七で、丹楊で孫河が殺害されたため、孫河の残した兵士たちをとりまとめると、京城の補修工事を行い、ものみやぐらを建て兵器や設備…

諸葛恪元遜しょかつかくげんそん

諸葛恪、字を元遜という。父は諸葛瑾、弟は諸葛喬、諸葛融、子は諸葛綽、諸葛竦、諸葛建、甥は諸葛亮らがいる。若くしてその名が知られた。二十歳前後で騎都尉に任ぜられ、顧譚・張休らとともに太子の孫登の側近くに仕え、ものごとの道理…

孟宗共武もうそうきょうぶ

孟宗、字は共武といい、江夏郡の人である。若い時、南陽の李粛に従って学問を修めた。母は孟宗のために、厚い敷蒲団を作ってやった。人が理由を訊くと、母親は「息子には他人様を惹きつけるような徳はありません。学問をやる人は多くは貧…

趙達ちょうたつ

趙達といい、河南郡の人である。若いころ、後漢の侍中單甫に就いて学問を修めた。東南の地方は王者の気があるので、難を避けられると考えて、長江を渡った。趙達は「九宮一算の術」という占術を会得して、飛んでいる蝗の数や、隠された品…

張承仲嗣ちょうしょうちゅうじ

張承、字は仲嗣といい、彭城県の人である。父は張昭、弟は張休、子は張震らがいる。張承は若い頃から才学をもって知られ、諸葛瑾・歩隲・厳畯らと親しかった。219年、孫権が驃騎将軍になると、張承はまねかれて西曹掾として官史の選抜…

丁固子賤ていこしせん

丁固は字を子賤といい、会稽郡山陰の人である。父は丁覧、子は丁彌がいる。丁固は若くして父を失くし、母と二人で暮らした。貧しい生活の中で母に孝養を尽くし、一族で身寄りがない年下の者と生計を一つにして、辛苦を共にした。257年…

曁豔子休きえんしきゅう

曁豔は字を子休といい、呉郡の人である。太子太傅張温は曁豔を選曹郎として用い、官吏の選抜に当たらせた。曁豔は昇進して尚書となり、軍事・政事の重要な職務を分担した。当時、郎官に署せられた者の大半が不適任な人材ばかりなので、曁…

士燮威彦ししょういげん

士燮、字を威彦といい、蒼梧郡の広信の人である。弟は士壱、士䵋、士武、子は士廞、士祗、士徽、士幹、士頌、甥は士匡がいる。その先祖はもともと魯国汶陽の人であったが、王莽によって混乱がおこると、それを避けて交州に移った。それか…

陳化元耀ちんかげんよう

陳化は字を元耀といい、汝南郡の人である。子は陳熾がいる。223年頃、陳化は、郎中令として魏に使いした。曹丕は酒が回った勢いで「呉と魏が対立しているが、どちらが海内を統一するか」と陳化に問うた。陳化は「易の説卦伝には『帝は…

孫邵長緒そんしょうちょうしょ

孫邵、字を長緒といい、北海郡の人である。身長は八尺もあった。北海の相だった孔融の功曹となり、孔融は孫邵を廊廟の才ありとして高く評価した。後に江東の揚州刺史劉繇に身を寄せた。200年、孫権が江東を支配すると仕え、しばしば献…

呂拠世議りょきょせいぎ

呂拠、字を世議といい、豫州汝南の人である。父は呂範がいる。呂範の長男ははやく死去したので、次男の呂拠があとを継いだ。呂範が高位にあることから郎に任ぜられた。のちに呂範の病気がおもくなると、副軍校尉の官を授かって、父親の補…

朱異季文しゅいきぶん

朱異、字を季文といい、呉郡呉県の人である。父は朱桓、叔父は朱拠がいる。朱桓が高位にあるということで郎に任ぜられ、のちに騎都尉の官を授かって、朱桓にかわって兵士たちをあずかった。241年、朱異は、朱然の指揮下で魏の樊城の攻…

馮煕子柔ふうきしじゅう

馮煕、字を子柔といい、潁川郡の人である。先祖は前漢の功臣、馮異である。209年、孫権が車騎将軍の在官の間、馮煕は東曹掾として官吏の登用の任にあたった。223年、永安宮において劉備が亡くなると、孫権は馮煕を立信都尉に昇進し…

孫瑜仲異そんゆちゅうい

孫瑜、字を仲異という。父は孫静で、兄は孫暠、弟は孫皎、孫奐、子は孫弥、孫熙、孫燿、孫曼、孫紘らがいる。恭義校尉として初めて兵士をあずかることになった。この当時、幕客や部将たちには江西出身の者が多かったが、孫瑜はおのれを虚…

朱績公緒しゅせきこうしょ

朱績、字を公緒といい、丹陽の人である。父は朱然、叔父は朱才、娘は施淑女らがいる。元の姓は施氏。父朱然が高位にあったことから郎に任ぜられ、のちに建忠都尉の官を授かった。叔父の朱才が死去すると、朱績がその兵士たちをあずかり、…

沈友子正しんゆうしせい

沈友、字を子正といい、呉郡の人である。沈友が11歳のとき、朝廷は華歆に各地を巡らせて、政治教化がよく行われているかどうかを視察させた。華歆は沈友と会って、その非凡さを知り、「沈郎よ、車に乗って一緒に話そう」と呼びかけた。…

郝普子太かくふしたい

郝普といい、荊州義陽郡の人である。214年、劉備は諸葛亮・張飛・趙雲を呼び寄せ、5月には成都を落城させた。荊州留守の大役は関羽に委ねられた。士仁は公安を守り、廖立は長沙太守に、麋芳は南郡大守に、そして郝普は零陵太守に任じ…

徐琨じょこん

徐琨といい、呉郡富春県の人である。父は徐眞、母は孫堅の妹、子は徐矯、徐祚、徐夫人(陸尚の妻、後に孫権の妻)らがいる。孫堅は呉郡冨春の徐眞と親交があり、妹を徐眞に嫁がせた。二人の間に生まれたのが徐琨だった。徐琨は若くして州…

鮮于丹せんうたん

鮮于丹といい、字も出身地も不明である。219年、呂蒙に付き従って、徐忠、孫規らとともに長沙、零陵、桂陽の三郡を奪還した。222年、劉備が進攻してきたので、陸遜に付き従って、蜀軍を撃破した。223年、賀斉に付き従って、糜芳…

凌操りょうそう

凌操といい、呉郡余杭の人である。子は凌操がいる。孫策が兵を興すと、凌操はつねにその配下として征伐に加わり、いつも先に立って敵の刃を犯して戦った。永平県の長に任命された。不服従民の山越を討伐して功績により破賊校尉に昇進した…

谷利こくり

谷利といい、字も出身地も不明である。215年8月、孫権は十万の兵を率いて合肥に進攻した。このとき、曹操は漢中征伐に向かい、合肥は張遼・李典・楽進が七千の兵を率いて守るだけだった。張遼は護軍の薛悌から示された曹操の指令に従…

微崇子和びすうしわ

微崇は、字を子和という。もともと姓は李であったが、世の中が乱れるようになると変えた。『易』や『春秋左氏伝』を治め、加えて讖緯の学にも精通していた。会稽に隠遁して、みずから耕して心のままの生活をおくった。微崇に心を寄せる者…

譚雄たんゆう

譚雄といい、『三国志演義』に登場する架空の人物である。221年、劉備の呉東征の際に、孫桓につき従って蜀軍を迎撃した。李異が張苞に討ち取られそうになると、矢で張苞の馬を射止めて救援するが、それも及ばず、李異は関興に斬られて…

劉阿りゅうあ

劉阿といい、字と出身地は不明である。221年、劉備は東征してくると、劉阿は李異とともに巫城と秭帰城の防衛に当たって、馮習に攻撃をしかけたが敗れた。222年、劉阿は、陸遜が計らって夷陵で蜀軍を撃破すると、追撃して南山に駐屯…

謝旌しゃせい

謝旌といい、字と出身地は不明である。劉備が大軍を率いて夷陵に進めてきたとき、孫桓に随時した。李異とともに攻撃して、陳鳳を生け捕りにし、文布を撃ち破った。『三国志演義』では、221年に関羽の敵討ちとして攻め込んできた蜀軍と…

李異りい

李異といい、字も出身地も不明である。214年、孫権は李異・甘寧らを劉備の入蜀の際に後続部隊として派遣したが、劉備とともに軍を動かさなかった。219年、荊州の制圧に従事していた陸遜は、李異に命じて謝旌と共に3千の兵を率い、…

潘濬承明はんしゅんしょうめい

潘濬は、字を承明といい、武陵群の漢寿の人である。妻は蒋琬の妹で、子は潘翥・潘祕・女子一人(孫慮の妻)らがいる。二十前後のとき、宋仲子から学問を受けた。まだ三十にならないとき、荊州の牧であった劉表からまねかれて荊州配下の江…

鍾離牧子幹しょうりぼくしかん

鍾離牧、字を子幹といい、会稽郡の山陰の出身で、漢代の魯国の相であった鍾離意の七世の孫である。父は鍾離緒、兄は鍾離駰、子は鍾離禕・鍾離盛・鍾離徇らがいる。彼は、若いときに永興に移住し、みずから田を墾いて、二十余に否を植えた…

馬忠ばちゅう

馬忠といい、字も出身地も不明である。孫権に仕えて、潘璋の配下となり司馬となった。219年、潘璋に従って関羽征討に赴いた。漳郷で関羽、関平父子と趙累らを生け捕りにした。正史にはほとんど記述がなく、その後は不明である。また、…

祖茂そも

祖茂といい、『三国志演義』では字を大栄、呉郡富春の人である。190年、董卓を討つべく孫堅が挙兵したとき、これに従軍した。孫堅が董卓軍に大敗して逃走した際に、孫堅の赤い頭巾を被って囮となった。董卓軍の騎兵は祖茂を追いかけた…

宋謙そうけん

宋謙といい、出生も字も不明である。195年、孫策の江東征伐につき従い、劉繇を攻めた。太史慈が孫策に一騎討ちを挑んだ際に孫策につき従っていた13人の騎兵の一人として並んでいた。215年、孫権が合肥を攻めたとき、宋謙は一軍を…

孫桓叔武そんかんしゅくぶ

孫桓、字を叔武といい、呉郡の人である。父は孫河、兄は孫俊、弟は孫助、孫誼、従兄弟は孫韶がいる。関羽を華容に討伐した際の作戦に参加し、関羽の余党を説得して五千人を呉に帰順させ、牛や馬や軍用機械などをおびただしく鹵獲した。年…

孫翊叔弼そんよくしゅくひつ

孫翊、字を叔弼といい、孫堅の三男で、孫策、孫権の弟である。子は孫松がいる。勇猛果敢で、兄の孫策の風格があった。太守の朱治が孫翊を孝廉に推挙し、司空の府から出仕するよう招かれた。203年、年二十歳で偏将軍として丹楊太守の職…

孫静幼台そんせいようだい

孫静、字を幼台といい、呉郡富春県の人である。孫堅の末弟で、孫策・孫権の叔父である。子は孫暠、孫瑜、孫皎、孫奐、孫謙がいる。孫堅がはじめて事を挙したとき、孫静は同郷の者や一族の者たち五、六百人を糾合して後の守りを固め、人々…

劉基敬輿りゅうきけいよ

劉基、字を敬輿といい、東莱郡の牟平の人である。父は後漢の揚州刺史劉ヨウ、弟は劉鑠、劉尚、娘は孫覇の妻である。父の劉ヨウは孫策に敗れ、豫章に付き添って滞在していた。年は十四であったが、劉ヨウが亡くなり、喪に服して少しも礼に…

周魴子魚しゅうほうしぎょ

周魴、字を子魚といい、呉郡の陽羨の人である。父は周賓、子は周処らがいる。若いときから学問を好み、孝廉に推挙されて、寧国県の長となり、のちに転じて懐安を治めた。銭唐一帯に勢力を張る大頭目の彭式らが多数の人数を集めて略奪をは…

呂岱定公りょたいていこう

呂岱、字を定公といい、広陵郡の海陵の人である。子は、呂凱(蜀とは別人)がいる。郡や県の役人をつとめていたが、のちに戦乱を避けて南へ移住した。孫権が呉の勢力を指揮するようになったころ、呂岱はその幕府に出向き、地方官の任を与…