全琮子璜ぜんそうしこう

全ソウ([王]偏に[宗])、字を子コウ([王]偏に[黄])といい、呉郡の銭唐の人である。父は全柔、子は全緒、全奇、全懌、全呉らがいる。妻は孫権の娘、孫魯班である。父親の全柔は、漢の霊帝の時代に考廉に推挙され、尚書郎右丞に…

薛綜敬文せつそうけいぶん

薛綜、字を敬文といい、沛郡の竹邑の人である。子は薛ク、薛瑩がいる。戦国時代(斉・魏・秦)の宰相孟嘗君の末裔である。若い時代、一族の者をたよって交州の地に疎開をし、その地にいた劉煕のもとで学問をうけた。士燮が孫権に味方する…

賀斉公苗がさいこうびょう

賀斉、字を公苗といい、会稽郡の山陰の人である。父に賀輔、子に賀達、賀景がいる。虞預の『晋書』によると、賀氏は元来、慶氏という姓であった。賀斉の伯父の慶純は、学者として人々から高く評価され、漢の安帝の時代に侍中や江夏太守を…

朱拠子範しゅきょしはん

朱拠、字を子範といい、呉郡の呉の人である。子に朱熊、朱損、朱夫人(孫休の皇后)、同族に朱桓、朱異がいる。風采があがり体力があって、そのうえに人と議論をすることに巧みであった。黄武の初年、召しだされて五官郎中の官を授かり、…

吾粲孔休ごさんこうきゅう

吾粲、字を孔休といい、呉郡の烏程の人である。孫河が烏程県の長であったとき、吾粲はその下役人をつとめ、孫河は彼の非凡さを高く評価した。孫河が後に将軍となり、地方長官たちを自分で任命できるようになると、上表して吾粲を曲阿の丞…

陸瑁子璋りくぼうししょう

陸瑁、字を子璋といい、呉郡の呉の人である。父は陸駿、兄は陸遜、子は陸喜らがいる。若いときから学問を好み、また義に篤かった。陳国の陳融、陳留の濮陽逸、沛郡の蒋簒、広陵の袁迪らは、みな後ろ盾もなく貧しい境涯にありつつも志だけ…

駱統公緒らくとうこうしょ

駱統、字を公緒といい、会稽郡の烏傷の人である。父は、駱俊、子は、駱秀がいる。父親の駱俊は、官途について陳国の相にまで昇進したが、袁術に殺害された。父親の死後、駱統の生母が再婚をして、華キンの側室となると、駱統はそのとき八…

張温恵恕ちょうおんけいじょ

張温、字を恵恕といい、呉郡の呉の人である。父は張允、弟は、張祗、張白、姉妹が3人いる。父親の張允は物おしみをすることなく立派な人物たちを鄭重に遇したので、故郷の州や郡ではその評判が高かった。彼は、孫権のもとで東曹掾となり…

陸遜伯言りくそんはくげん

陸遜、字を伯言といい、呉郡の呉の人である。父は陸駿、弟は陸瑁、子は陸延、陸抗がいる。もともとの名を陸議といい、その家は代々、江東の豪族であった。陸遜は、幼くして父親を失い、従祖にあたる盧江太守の陸康のもとに身を寄せて、陸…

陸績公紀りくせきこうき

陸績、字を公紀といい、呉郡の呉の人である。父親は陸康、弟は陸儁、子は陸宏、陸叡、娘に鬱生がいる。陸績は、六歳のとき、九江において袁術に目通りをした。袁術が橘(みかん)をお菓子として出したところ、陸績はそのうちの三つを懐に…

闞沢徳潤かんたくとくじゅん

カン沢(カンは[門構え]に[敢])、字を徳潤といい、会稽郡の山陰の人である。その先祖は代々農民であった。そうした家に生まれたカン沢は、学問を好んだのであるが、貧乏ぐらしで学費もなく、いつも他人のために筆耕をして紙筆のもと…

程秉徳枢ていへいとくすう

程秉、字を徳枢といい、汝南郡の南頓の人である。鄭玄が生きているうちにその教えを授かることができた。のちに世の中の混乱を避けて交州に移住し、その地にいた劉煕とものごとの根本原理について互いに論じ合い、その結果、博く五経に通…

厳畯曼才げんしゅんまんさい

厳シュン(シュンは、[田偏]に人偏が無い[俊])、字を曼才といい、彭城の人である。子は、厳凱、厳爽がいる。若い時代、学問に専念して、『詩経』『書経』、三礼(儀礼、周礼、礼記)によく通じ、加えて『説文解字』を好んだ。世の中…

朱桓休穆しゅかんきゅうぼく

朱桓、字を休穆といい、呉郡の呉の人である。子は朱異がいる。孫権が将軍になると、朱桓はその幕府でお仕えとして働き、やがて余姚県の長に任ぜられた。県に赴任してみると疫病が流行しており、飢饉で穀物や食糧も高騰していた。朱桓は、…

呂範子衡りょはんしこう

呂範、字を子衡といい、汝南郡の細陽の人である。子は呂拠がいる。若くして県の役人となった。彼は、おしだしが立派で風采が上がった。郷里の町の劉氏は、家が豊かで美しい娘がいた。呂範がその娘を妻にと求めたところ、娘の母親は呂範が…

丁奉承淵ていほうしょうえん

丁奉、字を承淵といい、盧江郡の安豊の人である。弟は丁封がいる。若くして、勇猛であるということで小さな部隊をあずけられ、甘寧、陸遜、潘璋らの指揮下に入った。しばしば征伐に参加して、戦闘の中でいつも抜群の手柄を立て、きまって…

潘璋文珪はんしょうぶんけい

潘璋、字を文珪といい、東郡の発干の人である。子は潘平がいる。孫権が陽羨県の長であったとき、出かけて行って目通りをし孫権の配下に入った。潘璋は気ままな性格で酒を好み、家は貧しくて、つねづねつけで酒を買い、かけ取りが家までや…

徐盛文嚮じょせいぶんきょう

徐盛、字を文嚮といい、琅邪郡の人である。子は徐楷がいる。世の中が乱れてきたので、故郷を棄てて呉郡に仮住まいし、度胸と義気とがあることで人々に知られた。孫権が呉の勢力を取りまとめると、徐盛を別部司馬に任じて、兵士五百人を授…

凌統公績りょうとうこうせき

凌統、字を公績といい、呉郡の余杭の人である。父は凌操、子は凌烈、凌封がいる。父親の凌操は、男だてを好み肝っ玉が太かった。孫策が兵を興すと、凌操はつねにその配下として征伐に加わり、いつも先に立って敵の刃を犯して戦った。孫権…

朱然義封しゅぜんぎほう

朱然、字を義封といい、丹陽郡の人である。義父は朱治、子は朱績がいる。朱治の姉の子で、元来の姓は施氏であった。朱治は、まだ子供がなかったことから、朱然が年十三であったとき、孫策に上言して、朱然を自分の跡継ぎにしたいと願い出…

朱治君理しゅちくんり

朱治、字を君理といい、丹陽郡の人である。子は朱才、朱紀、朱緯、朱万歳、養子に朱然がいる。はじめ県の下役人となり、やがて孝廉に推挙され、州の役所から招かれて従事となった。のちに孫堅の配下に入り征伐に従った。188年、司馬に…

虞翻仲翔ぐほんちゅうしょう

虞翻、字を仲翔といい、会稽郡の余姚の人である。子は虞シ、虞忠など11人がいる。虞翻は若いときから学問を好み、おのれを高く持していた。年二十のとき、彼の兄を訪ねた人があったが、虞翻の所には挨拶にやってこなかった。虞翻は、あ…

張紘子綱ちょうこうしこう

張紘、字を子綱といい、広陵の人である。子は張靖、張玄がいる。京都に出て学問をした。太学に入ると、博士の韓宗に師事して京氏易と欧陽尚書とを治め、さらに陳留郡の外黄において濮陽関から韓詩と礼記と左氏春秋とを学んだ。故郷の郡に…

歩隲子山ほしつしざん

歩隲、字を子山といい、臨淮郡の淮陰の人である。先祖は漢建国に貢献した歩叔である。子は歩協、歩ガイがいる。世の中が乱れたので、難を避けるため江夏に移住した。たよるべき人もなく困窮して、広陵の衛旌が同じ年で仲が良かったことか…

諸葛瑾子瑜しょかつきんしゆ

諸葛瑾、字を子瑜といい、琅邪郡の陽都の人である。父は諸葛珪、甥に諸葛玄、子は諸葛恪、諸葛喬、諸葛融がいる。弟は蜀の重臣である諸葛亮、諸葛均である。若い時代に京師に出て、『毛詩』(詩経)、『尚書』(書経)、『左氏春秋』など…

顧雍元歎こようげんたん

顧雍、字を元歎といい、呉郡呉の人である。弟は顧徽、子は顧邵、顧裕、顧済がいる。蔡ヨウは、朔方郡からもどったあと、人の怨みを避けるために呉にやってきたことがあって、顧雍はその蔡ヨウから琴と学問との伝授を受けた。州と郡の役所…

張昭子布ちょうしょうしふ

張昭、字を子布といい、彭城の人である。甥は張奮、子は張承、張休らがいる。若いときから学問を好み、隷書に巧みであった。白侯子安から『左氏春秋』を教授され、博くさまざまな書物を読んで、琅邪の趙イクや東海の王朗と並んで名声をは…

甘寧興覇かんねいこうは

甘寧、字を興覇といい、巴郡の臨江の人である。子は甘カイ、甘述がいる。若いときから気概を持って、遊侠を好み、無頼の若者たちを集めて、その頭領となっていた。仲間は大勢で集団をなし、弓や弩をたばさみ、水牛の尻尾の旗さしものを背…

董襲元代とうしゅうげんだい

董襲、字を元代といい、会稽郡の余姚の人である。身の丈は八尺(190センチ余り)、人なみはずれた武力があった。孫策が太守として会稽郡にやってきたとき、董襲はそれを高遷亭で迎えた。孫策は、彼に会ってその人物の立派さに感心をし…

陳武子烈ちんぶしれつ

陳武、字を子烈といい、盧江郡の松滋の人である。子は陳脩、陳表がいる。孫策が寿春にいたとき、陳武は出かけていって孫策に拝謁した。このとき、彼は年が十八で、身の丈が七尺七寸(185センチ余)あった。そのまま孫策のもとに留まっ…

周泰幼平しゅうたいようへい

周泰、字を幼平といい、九江郡の下蔡の人である。子は周邵、周承がいる。蒋欽とともに孫策の配下に入り、その側近となった。周泰は、つつしみ深く孫策に仕え、しばしば戦いの中で手柄を立てた。孫策が会稽郡に入ると、周泰は別部司馬に任…

蒋欽公奕しょうきんこうえき

蒋欽、字を公奕といい、九江郡の寿春の人である。子は蒋壱、蒋休がいる。孫策が袁術のもとに身を寄せていたころ、蒋欽は孫策の配下に入って側仕えとして働いていた。孫策が江東へ渡ると、蒋欽は別部司馬に任ぜられ、兵を授けられた。孫策…

韓当義公かんとうぎこう

韓当、字を義公といい、遼西郡の令支の人である。子に韓綜がいる。弓術や馬術に巧みであり、体力もあるということで、孫堅から目をかけられ、その征伐に従って各地を転戦した。しばしば危険を犯し、敵を破り賊を捕虜として、その功績によ…

黄蓋公覆こうがいこうふく

黄蓋、字を公覆といい、零陵郡の泉陵の人である。南陽太守の黄子廉の子孫、子は黄柄。黄蓋は、幼くして父を失い、若いときから不幸が重なって、つぶさに辛苦をなめた。しかし大きな志を持って、貧賤の中にあっても、みずからを凡庸な人々…

程普徳謀ていふとくぼう

程普、字を徳謀といい、右北平郡の人である。子は程咨。州や郡の役人となったが、立派な風采があって将来への見通しがきき、人との応対も巧みであった。やがて孫堅の配下に入って征伐に従い、黄巾の一味を宛やトウで討伐し、董卓を陽人で…

呂蒙子明りょもうしめい

呂蒙、字を子明といい、汝南郡の富坡の人である。子は、呂ソウ、呂覇、呂睦。年少のころ江南に渡り、姉の夫であるトウ当のもとに身を寄せた。トウ当は孫策の部将となり、しばしば山越の討伐を行なった。呂蒙は、年が十五、六であったが、…

魯粛子敬ろしゅくしけい

魯粛、字を子敬といい、臨淮郡の東城の人である。子に魯淑がいる。生まれるとすぐ父親を亡くし、祖母といっしょに生活をした。家は富裕で、魯粛は好んで人々を経済的に援助した。当時、天下はすでに騒がしくなっており、魯粛は家業をうっ…

周瑜公瑾しゅうゆこうきん

周瑜、字を公瑾といい、盧江郡の舒の人である。従祖父の周景と、周景の息子の周忠とは、ともに漢王朝で大尉に任ぜられた。父の周異は、洛陽県令であった。子は、周循と周胤、妻は小喬。周瑜は成人するとともに立派な風采をそなえた。孫堅…

太史慈子義たいしじしぎ

太史慈は、字を子義といい、東莱郡の黄県の人である。子に太史享がいる。若いときから学問を好み、郡の役所に仕えて奏曹史となった。たまたま郡と青州との間に確執が起こり、どちらかが正しいのか決着がつかず、先に朝廷に上聞したほうが…

孫堅文台そんけんぶんだい

孫堅、字を文台といい、呉郡の富春の人である。おそらく孫武(兵法家の子孫)の子孫なのであろうと正史にも記してあるが、事実不明である。若くして県の役人になった。171年頃、年17のときのこと、父親といっしょに船に乗って銭唐に…

孫策伯符そんさくはくふ

呉郡の将軍である孫堅の長子、弟は呉の皇帝孫権である。孫堅が義兵を挙げると母親を連れて舒(じょ)に移り住んだ。そこで周瑜と友情を結すんだ。192年、孫堅が戦死すると遺骸を奉じて曲阿(きょくあ)に帰り葬った。その後、袁術の元…

孫権仲謀そんけんちゅうぼう

孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。また、『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「碧眼児」と呼ばれる。父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴…

文欽仲若ぶんきんちゅうじゃく

文欽、字を仲若といい、豫州譙郡の人である。父は文稷、子は文鴦、文虎がいる。219年、西曹椽の魏諷が曹操の不在の間に鄴都を襲おうとして失敗し、曹丕に殺された。文欽は魏諷の言辞に関連したところがあったとして、あわや処刑される…

孫礼徳達そんれいとくたつ

孫礼、字を徳達といい、涿郡容城県の人である。孫は孫元がいる。曹操は幽州を平定すると、召し出して司空軍謀椽にとりたてた。そのむかし動乱の時代に、孫礼の母が行方不明になった。同郡の馬台が孫礼の母を探しあてた。孫礼は家財を全部…

賈逵梁道かきりょうどう

賈逵は字を梁道といい、河東郡の襄陵県の人である。子は賈充、賈混、孫は賈南風がいる。子供の時分からいつも部隊の編成をして遊んでいた。祖父の賈習はそれを特別視して、「おまえは大きくなれば指揮官となるにちがいない」といい、数万…

司馬朗伯達しばろうはくたつ

司馬朗は字を伯達といい、河内郡の温県の人である。父は司馬防、弟は司馬懿・司馬孚・司馬馗など、子は司馬遺がいる。九歳のとき、彼の父の字をいう者がいた。司馬朗は、「他人の親を馬鹿にする者は自分の親を尊敬しない人です」といった…

楊修徳祖ようしゅうとくそ

楊修、字を徳祖といい、弘農郡華陰県の人である。父は大尉楊彪、子は楊囂、孫は楊準がいる。楊脩とも表記される。建安年間、孝廉に推挙され、郎中に任命されたが、曹操は要請して倉曹属主簿に任命した。この当時、軍事にも国政にも事が多…

曹沖倉舒そうちゅうそうじょ

曹沖、字名を倉舒という。父は曹操、異母兄は曹昂、曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹鑠、同母弟は曹宇、曹據などがいて、第八子である。年少ながら聡明で理解力があり、五、六歳にして、智慧のはたらきは成人のようなところがあった。当時孫権…

曹植子建そうしょくしけん

陳の思王曹植、字を子建といい、沛国譙県の人である。父は曹操、同母の兄は曹丕、曹彰、弟は曹熊、異母の兄は曹昂、曹鑠、子は曹苗、曹志らがいる。年十歳余りで、『詩経』『論語』および『楚辞』漢賊数十万字を郎誦し、文章をつづるのが…

曹彰子文そうしょうしぶん

曹彰、字を子文といい、沛国譙県の人である。父は曹操、同母兄は曹丕、同母弟は曹植・曹熊、子は曹楷らがいる。たびたび征伐のおともをし、激しい気性を示した。曹操はあるとき彼の気性を抑えるためにいった、「おまえは書物を読んで聖人…