醍醐敏郎

醍醐 敏郎(だいご としろう、1926年1月2日[注釈 1] – )は、日本の柔道家(講道館十段)。 戦後の柔道界を牽引した1人であり、同時期に活躍した松本安市、吉松義彦、石川隆彦、夏井昇吉らと繰り広げた数々…

万見仙千代

織田信長の小姓。荒木村重の謀反による有岡城の戦いにおいて討ち死にした。神子田長門守の子といわれているが、出身国・生年とも不明な点が多い。

母里友信

母里太兵衛(もりたへえ)ともよばれる。また、毛利但馬、毛利太兵衛と表記されることも多い。なお姓の正式な読みは「ぼり」である。黒田長政の精鋭家臣である黒田二十四騎のひとり。また、二十四騎からさらに功績高い者を選出した黒田八…

栗山利安

幼名は栗山善助(くりやまぜんすけ)。 黒田長政の精鋭家臣である黒田二十四騎のひとり。また、二十四騎からさらに功績高い者を選出した黒田八虎のひとりでもあり、黒田家にとって非常に重要な家臣であるといえる。 黒田官兵衛に仕え、…

フランシスコザビエル

カトリック教会の司祭、宣教師で、イエズス会の創設メンバーのひとり。日本に初めてキリスト教を伝えた人物として名高い。ザビエルは、1506年にナバーラ王国の貴族の息子として誕生した。19歳の時に名門パリ大学に留学、聖バルバラ…

ルイスフロイス

1532年にポルトガルのリスボンで誕生。16歳の時にイエズス会に入会した。1563年、念願だった日本への来日を果たし布教活動を開始、1569年に織田信長と初めて対面し、その信頼を得て畿内での布教を許された。織田信長の没後…

光姫

黒田官兵衛の正室である。子・黒田長政を産む。櫛橋光(くしはしてる)、また照姫(てるひめ)とする場合もある。。院号は照福院(しょうふくいん)、俳号は幸円(こうえん)。

西笑承兌

豊臣秀吉や徳川家康の政治顧問を務めた臨済宗の僧。別名は、相国寺承兌。号は月甫、南陽。 西笑承兌は、荒廃していた相国寺の住持となるとこれを再建し「相国寺中興の祖」と呼ばれた。その後、豊臣秀吉の政治顧問となり、秀吉のブレーン…

金地院崇伝

徳川家康の外交僧として活躍した臨済宗の僧。以心崇伝とも呼ばれる。あだ名は「黒衣の宰相」。 金地院崇伝は、父・一色秀勝の子として誕生し、父の没後、京の南禅寺で修行、さらに醍醐寺三宝院で学んだ。南禅寺の270世住職となった3…

長谷川等伯

安土桃山時代から江戸時代にかけての絵師で「長谷川派」を形成した。 幼名は、又四郎。のちに帯刀と称した。父は能登国七尾城主・畠山氏の家臣といわれ、幼少期に染物業を営む長谷川宗清の養子になったといわれている。 熱心な日蓮宗の…

狩野永徳

安土桃山時代の絵師で「狩野派」を率いた人物。 公家や武家のふすま絵を手がけ当時の日本画壇の中心に君臨した。祖父は「狩野派の祖」といわれる狩野元信。一般的に知られる「永徳」は法号で、名は源四郎。若い頃からその才能は高く評価…

角倉了以

茶屋四郎次郎の「茶屋家」と後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる京の豪商。 父・吉田宗桂は室町幕府に仕えた医者で、その傍ら金融業も営み勘合貿易にも従事していた。了以は、1600年頃から徳川家康に接近し、朱…

茶屋四郎次郎

京の豪商・茶屋家の初代当主で、徳川家康の御用商人。 茶屋家は、角倉了以の「角倉家」と後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれる。茶屋家の当主は代々「茶屋四郎次郎」を名乗り、初代は名を清延という。 早くから徳川…

松平忠輝

徳川家康の六男で越後高田藩主。幼名は、辰千代。通称は、越後少将。おもな官位は、上総介、従五位下、従四位下、左近衛権少将。 妻は伊達政宗の長女・五郎八姫。家康の六男として誕生した忠輝だが、生母・茶阿局の身分が低かったことや…

近衛前久

戦国時代から江戸時代にかけて関白左大臣、太政大臣を務めた公家で、近衛家当主。 初名は、晴嗣。前嗣、前久と名を変えた。一字名は、竜・山・杉・春。道号は、竜山。おもな官位は、太政大臣、従一位、准三宮。 近衛前久は、5歳にして…

堀尾吉晴

豊臣政権の三中老のひとり(ほかは、生駒親正、中村一氏)。出雲松江藩の初代藩主でもある。 幼名は仁王丸、小太郎。仮名は茂助。諱は、可晴、吉定、吉直。おもな官位は、帯刀先生、従四位下。 温和な性格だったため「仏の茂助」と呼ば…

新納忠元

島津氏の庶流・新納家の出身で、島津氏3代に仕えた重臣。小柄ながら武勇に優れ「鬼武蔵」「大指(親指)武蔵」の異名をとった。 幼名は阿万丸。別名は拙斎、為舟。おもな官位は、武蔵守、刑部大輔。 新納忠元の父・祐久も島津氏の重臣…

島津義久

薩摩の戦国大名・島津氏16代当主で、有能な3人の弟(義弘、歳久、家久)とともに九州平定を目指し島津氏最大版図を築いた。 幼名は虎寿丸。忠良、義辰、義久と改名し、法号は龍伯。通称は三郎左衛門尉。別名は又三郎。おもな官位は、…

鍋島直茂

「肥前の熊」と呼ばれた龍造寺隆信の右腕的存在で、佐賀藩の藩祖。 幼名は彦法師丸。通称は孫四郎。別名は左衛門大夫。信安、信真、信昌、信生、直茂と何度も改名した。あだ名は、「龍造寺の仁王門」「老虎」。おもな官位は、飛騨守、加…

龍造寺隆信

肥前の戦国大名で、大友氏、島津氏と並ぶ九州三強のひとり。幼名は長法師丸。胤信とも名乗った。受領名は山城守。号は円月坊。あだ名は「肥前の熊」。 龍造寺隆信は幼い頃に寺に入りそこで養育された。隆信が16歳のとき、祖父・龍造寺…

臼杵鑑速

「うすきあきすみ」とも読む。 豊後の戦国大名・大友義鑑と宗麟の2代に仕えた重臣で、大友氏「三老」のひとり(ほかは、吉弘鑑理、立花道雪)。おもな官位は、四郎左衛門尉、越中守。 臼杵鑑速は外交手腕に優れ、室町幕府との交渉や毛…

立花道雪

豊後の戦国大名・大友氏の全盛期を支えた猛将で、大友氏「三老」のひとり(ほかは、吉弘鑑理、臼杵鑑速)。 立花の名跡を継いだが本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連、戸次道雪を名乗った。幼名は孫次郎。号は麟伯軒道雪。あだ名は…

長宗我部信親

四国の覇者・長宗我部元親の息子(嫡男)。幼名は千雄丸。仮名は弥三郎。 幼少の頃から聡明で武勇にも優れていたため父・元親から寵愛されその将来を嘱望された。さらに長身の美形だったともいう。 烏帽子親は織田信長で、信親の「信」…

大内義隆

大内氏の31代当主で、周防・長門・安芸・豊前・筑前・山城などの守護を務めた戦国大名。 父は大内義興。幼名は亀童丸。受領名は周防介。尊称は大内介。おもな官位は、兵部卿、大宰大弐、侍従、従二位。大内義隆は父・義興が病死したこ…

大内義興

大内氏の30代当主で、周防・長門・安芸・豊前・筑前・山城などの守護を務めた戦国大名。 幼名は亀童丸。通称は六郎。尊称は大内介。おもな官位は従三位左京大夫。 大内氏29代当主・大内政弘の子として誕生した義興は、1494年に…

長連龍

幼名は萬松。仮名は九郎左衛門。僧名は宗先。別名は好連。 長連龍は、能登守護畠山氏の重臣・長続連の子として誕生した。1577年、上杉謙信の能登侵攻により畠山氏の居城・七尾城は包囲される。さらに城内では遊佐続光、温井景隆らが…

本荘繁長

上杉家の重臣で越後本庄城主。通称は弥次郎。号は雨順斎全長。官位は越前守。 上杉謙信に仕え、川中島合戦や関東出兵などに参加し各地を転戦、持ち前の武勇をもって大いに武功をあげた。 しかし、1568年、謙信からの独立を図り武田…

新発田重家

蒲原郡新発田城主。仮名は源太。受領名は因幡守。 はじめ五十公野家を相続し五十公野治長と称したが、兄・長敦の死をうけ新発田家を相続し新発田重家を名乗った。上杉謙信に仕え川中島合戦や関東出兵に参加した。1578年に謙信が後継…

柿崎景家

越後柿崎城主で、上杉謙信の七手組大将のひとり。仮名は弥次郎。受領名は和泉守。 はじめ長尾為景に仕えたが、為景が没すると長尾晴景に仕え、その子・景虎(上杉謙信)に仕え重用された。文武両道に優れた武将で、軍事面では先手組30…

宇佐美定満

上杉四天王の一人(ほか、直江景綱、甘粕景持、柿崎景)。 越後国の上杉晴景、謙信の2代に仕え、越後琵琶島城主を務めた。上杉謙信の軍師・宇佐美定行のモデルとしても知られる。別名は良勝。受領名は駿河守。尊称は琵琶島殿。定満は最…

長尾政景

米沢藩初代藩主・上杉景勝の実父。上田長尾氏の当主で越後国坂戸城主でもあった。 妻は上杉謙信の姉・仙桃院。幼名は新六。戒名は道宗。別名は六郎、新五郎。受領名は越前守。 1550年、家督を継いだ上杉謙信に対し長尾政景は謀反を…

村上義清

信濃国埴科郡葛尾城の城主で、村上氏全盛期の当主。 幼名は武王丸。おもな官位は、右京権亮、佐渡守、左衛門尉、左衛門佐、周防守、左馬頭、信濃守、兵部大輔、左近衛少将、従五位下、従四位下、正四位。 葛尾城主・村上顕国の子として…

飯富虎昌

武田信虎、信玄に仕えた甲斐武田氏の重臣で、武田二十四将のひとり。戦国最強をうたわれた精鋭部隊「赤備え」を率いた最初の人物といわれる。また、猛将として知られ「甲山の猛虎」とあだ名され恐れられた。官位は兵部少輔。 飯富虎昌は…

伊東マンショ

日本最初の天正遣欧使節の代表。マンショは洗礼名であり、本名は祐益。 天正遣欧使節の代表として大友宗麟の名代に選ばれた時、マンショはまだ13歳であった。ローマに渡ったマンショは、教皇グレゴリオ13世と謁見、ヨーロッパの文化…

真田幸隆

信濃国小県郡真田の領主で武田氏の家臣。真田昌幸の父であり、真田幸村の祖父でもある。 幼名は次郎三郎。通称は源太左衛門、弾正忠。幸綱とも名乗った。号は一徳斎。あだ名は「攻め弾正」「鬼弾正」。信濃国小県郡の名族・海野棟綱の子…

結城政朝

鎌倉時代から続く名門・下総結城氏の15代当主で「結城氏中興の祖」といわれる人物。 結城政朝が2歳のときに父・結城氏広が急死したため、わずか3歳で家督を相続することになった。しかし、そのため家中の実権は重臣・多賀谷和泉守に…

三浦道寸

平安時代より三浦半島を支配した名門・三浦氏の事実上最後となる当主。 本名は義同。別名は三浦介。よく知られる道寸は出家後の号。おもな官位は従四位下陸奥守。 三浦道寸は扇谷上杉高救の息子として誕生したが、名門・三浦氏の当主で…

足利政氏

室町幕府第二代古河公方。 法名は道長。官位は左馬頭。政氏は初代古河公方・足利成氏の息子として誕生し、1489年に家督を継いだ。 足利政氏は古河公方として、長く対立関係にあった山内上杉氏や扇谷上杉氏と手を組み関東に勢力を拡…

葛西晴信

葛西氏17代当主で陸奥国登米郡寺池城主。 初名は信清。おもな官位は左京大夫。生没年は諸説ある。 葛西晴胤の子で兄がいたが、兄が病没したため家督を相続した。隣接する大崎氏とたびたび交戦し対立を繰り返していたため、晴信は伊達…

津軽為信

弘前藩の初代藩主。 幼名は扇。叔父・大浦為則の養子となった際は大浦弥四郎と名乗った。おもな官位は右京亮、右京大夫。 大浦氏の家督を継いだ津軽為信は大浦城に入り城主となると津軽中央への進出を図る。当時、津軽は南部氏が郡代を…

南部信直

「南部氏中興の祖」といわれる人物で、陸奥国盛岡藩の藩祖。 通称は田子九郎。おもな官位は大膳大夫、従四位下。 南部信直は1546年4月1日、南部氏一門の石川高信の息子として誕生し、1565年、陸奥国三戸城主・南部晴政の養嗣…

蘆名盛氏

蘆名氏十六代当主。正室は伊達政宗の曽祖父・稙宗の娘。 幼名は四郎丸。仮名は平四郎。号は止々斎。おもな官位は修理大夫、従四位下。 蘆名盛氏は1541年に父・盛舜から家督を譲られると、翌年には山内氏をやぶり勢力を拡大、やがて…

鬼庭良直

伊達氏の家臣で、伊達郡赤館城主・鬼庭元実の息子。別名は周防守。号は左月斎。 1539年に父・元実が隠居すると家督を相続、伊達氏十六代当主・伊達輝宗の側近となり重用され、天正年間には鬼庭氏は一族の家格が与えられるまでになっ…

伊達成実

伊達政宗の重臣中の重臣。亘理伊達氏の初代当主。 幼名は時宗丸。仮名は藤五郎。受領名は兵部。官位は安房守。 伊達成実は1568年、大森城主・伊達実元の嫡男として誕生、1583年に家督を相続し大森城主となった。武勇に優れ、1…

伊達稙宗

伊達氏十四代当主であり、伊達政宗はひ孫にあたる。 当初は高宗と名乗っていたが、室町幕府十一代将軍・足利義稙から一字賜り稙宗と改名した。和歌を好み、号は受天。おもな官位は、左京大夫、従四位下。 伊達稙宗は、1488年、伊達…

足利義栄

室町幕府十四代将軍で、室町幕府歴代将軍のなかで唯一、京に入ることができなかった人物。生年は1540年説もある。 初名は義親。法号は光徳院。おもな官位は、征夷大将軍、左馬頭、従五位下。 足利義栄は十二代将軍・足利義晴の弟で…

仙石秀久

豊臣秀吉の最古参の家臣のひとりで、信濃国小諸藩の初代藩主。 通称は権兵衛。別名は秀康、盛長。おもな官位は越前守。 少年期から羽柴秀吉に仕え、各地を転戦し武功を挙げた。1583年には淡路国洲本城の城主となり5万石を与えられ…

村井貞勝

織田信長の側近中の側近で、京都所司代を務めた。 通称は吉兵衛。号は春長軒。おもな官位は長門守、民部少輔、民部丞。 早くから織田信長に仕え、行政手腕に秀でていたことから重用された。1568年に信長が足利義昭を擁して上洛した…

高坂昌信

甲斐武田氏の家臣でいわゆる「武田四天王」のひとり(ほかは、馬場信春、内藤昌秀、山県昌景)。 信濃国海津(川中島)城の城主でもある。もとは春日氏の出身で、春日虎綱とも名乗った。幼名は源助。通称は源五郎。別名は昌宣、昌忠、晴…

上杉景虎

“相模の獅子”とうたわれた北条氏康の息子(7男)で、のちに上杉謙信の養子となった。 幼名は西堂丸または竹王丸。北条三郎を名乗ったともいわれるが不明。号は出西堂。 これまで北条氏秀と同一人物といわれてきたが、近年では別人と…