司馬昭子上しばしょうしじょう

司馬昭、字を子上といい、河内郡温県の人である。父は司馬懿、兄は司馬昭、弟は司馬幹、母は張春華、子は司馬炎、司馬攸らがいる。255年、兄の司馬師が死去すると、司馬昭は同じく大将軍・侍中・都督中外諸軍事・録尚書事となった。兄…

劉繇正禮りゅうようせいれい

劉繇、字を正禮といい、東莱郡牟平県の人である。漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭の直系、父は劉輿、叔父は劉寵、劉韙、兄は劉岱、子は劉基、劉鑠、劉尚らがいる。劉繇は十九歳のとき、叔父の劉韙が賊の人質となった。彼はそれを奪い返…

費禕文偉ひいぶんい

費禕([示]編に韋)、字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。子は、費承、費恭がおり、娘は皇太子劉璿の妃。幼いころ父を失い、叔父の費伯仁のもとへ身を寄せた。伯仁の姑は益州の牧劉璋の母であった。劉璋は使者を派遣して伯仁を迎え…

蔣琬公琰しょうえんこうえん

蔣琬、字を公琰といい、零陵郡湘郷県の人である。子は蔣斌、蔣顕らがいる。二十歳のときに外弟(父の姉妹の子、あるいは母の兄弟・姉妹の子)の泉陵の劉敏とともに名を知られた。蔣琬は州の書佐として劉備に随行して蜀に入り、広都の長に…

孟光孝裕もうこうこうゆう

孟光、字を孝裕といい、河南郡洛陽県の人である。後漢の大尉孟郁の一族である。霊帝の末年、講部吏となった。献帝が長安に遷都すると、そのまま蜀へと逃げこんだ。劉焉父子は彼を客礼をもって待遇した。劉備が益州を平定すると、議郎に任…

楊洪季休ようこうききゅう

楊洪、字は季休といい、ケン為郡武陽県の人である。劉璋の時代、諸郡の官吏を歴任した。劉備が蜀を平定すると、太守の李厳は功曹に任命した。李厳は郡役所を移転させたいと思ったが、楊洪はあくまでも諌めて譲らず、かくて功曹を辞職し、…

許靖文休きょせいぶんきゅう

許靖、字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。従兄弟は人物評で有名な許劭、子は許欽がいる。若いころ従兄弟の許劭とともに名を知られ、いずれも人物評価によって評判をたてられたが、感情的にしっくりいかなかった。許劭は郡の功曹と…

関羽雲長かんううんちょう

関羽は字を雲長という。もとの字は長生といい、河東郡解県の人である。本籍から琢県に出奔した。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。劉備が故郷で徒党を集めたと…

諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が…

諸葛恪元遜しょかつかくげんそん

諸葛恪、字を元遜という。父は諸葛瑾、弟は諸葛喬、諸葛融、子は諸葛綽、諸葛竦、諸葛建、甥は諸葛亮らがいる。若くしてその名が知られた。二十歳前後で騎都尉に任ぜられ、顧譚・張休らとともに太子の孫登の側近くに仕え、ものごとの道理…

全琮子璜ぜんそうしこう

全ソウ([王]偏に[宗])、字を子コウ([王]偏に[黄])といい、呉郡の銭唐の人である。父は全柔、子は全緒、全奇、全懌、全呉らがいる。妻は孫権の娘、孫魯班である。父親の全柔は、漢の霊帝の時代に考廉に推挙され、尚書郎右丞に…

駱統公緒らくとうこうしょ

駱統、字を公緒といい、会稽郡の烏傷の人である。父は、駱俊、子は、駱秀がいる。父親の駱俊は、官途について陳国の相にまで昇進したが、袁術に殺害された。父親の死後、駱統の生母が再婚をして、華キンの側室となると、駱統はそのとき八…

顧雍元歎こようげんたん

顧雍、字を元歎といい、呉郡呉の人である。弟は顧徽、子は顧邵、顧裕、顧済がいる。蔡ヨウは、朔方郡からもどったあと、人の怨みを避けるために呉にやってきたことがあって、顧雍はその蔡ヨウから琴と学問との伝授を受けた。州と郡の役所…

周瑜公瑾しゅうゆこうきん

周瑜、字を公瑾といい、盧江郡の舒の人である。従祖父の周景と、周景の息子の周忠とは、ともに漢王朝で大尉に任ぜられた。父の周異は、洛陽県令であった。子は、周循と周胤、妻は小喬。周瑜は成人するとともに立派な風采をそなえた。孫堅…

孫権仲謀そんけんちゅうぼう

孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。また、『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「碧眼児」と呼ばれる。父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴…

楊修徳祖ようしゅうとくそ

楊修、字を徳祖といい、弘農郡華陰県の人である。父は大尉楊彪、子は楊囂、孫は楊準がいる。楊脩とも表記される。建安年間、孝廉に推挙され、郎中に任命されたが、曹操は要請して倉曹属主簿に任命した。この当時、軍事にも国政にも事が多…

孔融文挙こうゆうぶんきょ

孔融、字を文挙といい、青州魯国曲阜県の人である。父は孔宙、兄は孔襃、子は名前が不明、娘がいる。河南伊だった李膺は名声が高かったので訪問者が多く、当代優れた人か、代々の付き合いある人しか通さなかった。孔融は十余歳の時、李膺…

毛玠孝先もうかいこうせん

毛カイ(王偏に介)、字を孝先といい、陳留郡の平丘県の人である。子に毛機がいる。若いころ、県の役人となったが、清潔公正ということで評判をたてられた。戦乱を避けて荊州に行こうとしたが、到着する前に、劉表の政令がいい加減だと聞…

劉馥元穎りゅうふくげんえい

劉馥、字を元穎といい、沛国相県の人である。子に劉靖、孫に劉煕、劉弘らがいる。動乱を避けて揚州に赴いた。建安の初、袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢をひきつれていっしょに曹操のもとへくらがえさせた。曹操はそれを喜び…

于禁文則うきんぶんそく

于禁、字を文則といい、泰山郡鉅平県の人である。子は于圭がいる。黄巾の乱が起こると、鮑信は兵隊を呼び集めた。于禁は彼につき従った。曹操がエン州を治めることになると、于禁はその仲間とともに出頭し都伯(隊長)となり将軍王朗に所…

賈詡文和かくぶんわ

賈ク(クは言偏に羽)、字を文和といい、武威郡の姑臧県の人である。子は賈穆、賈訪がいる。若いとき認める人はいなかったが、ただ漢陽の閻忠だけは彼を評価し、賈クには張良や陳平(前漢高祖の策士)のような奇略があるといっていた。孝…

曹操孟徳そうそうもうとく

曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ大尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操…

今井正

映画『青い山脈』や『ひめゆりの塔』など戦後を代表する名作を監督した巨匠。数多くの社会派映画を手がけた。東京帝国大学(現・東京大学)を中退後、J.O.スタヂオ(現・東宝)企画部に入社、同期には市川崑がいた。監督デビュー作は…

天野貞祐

大正から昭和にかけて活躍した哲学者、教育者、文学博士。第3次吉田茂内閣では文部大臣も務めた。また、獨協大学の初代学長でもある。哲学者カントの代表作『純粋性理性批判』を初めて日本語に翻訳したことでも知られる。「学問を通じて…

宮武外骨

明治期から昭和にかけて活躍したジャーナリスト。新聞記者、新聞編集者、メディア史学者、著作家、新聞史研究家、江戸・明治期の世相風俗研究家などといったさまざまな顔を持つ。反骨精神に富み、政府と権力に対し筆をもって批判を行い、…

金森宗和

江戸時代前期の茶人、武士。今日まで続く茶道「宗和流」の祖。名は重近(しげちか)。戦国武将でのちの飛騨高山藩主・金森可重の長男として生まれた。「大坂の陣」に際して徳川方に味方する父を批判したことから勘当され、母とともに京へ…

松平隠岐守

江戸時代前期の大名、伊予国松山藩の4代藩主。名は定直(さだなお)。赤穂浪士四十七士のうち大石内蔵助の子・主税(ちから)や堀部安兵衛ら10人の義士を預かったことで知られる。伊予国今治藩主・松平定時の子として生まれ、又従兄に…

水野監物

江戸時代前期から中期の大名、三河国岡崎藩の4代藩主。幕府老中も務めた。官位から「水野監物」の通称で知られるが、名は忠之(ただゆき)。岡崎藩2代藩主・水野忠春の四男として生まれ、親族で旗本の水野忠近の養子となり家督を継いだ…

神崎与五郎

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。与五郎は通称で、名は則休(のりやす)。家紋は蛇の目。大高源五と並び浅野家家中きっての俳人として知られ、「竹平」の俳号を持つ。また、浪士随一の酒豪といわれ、美男子だったと伝わる…

前原伊助

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。伊助は通称で、名は宗房(むねふさ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、家督を継ぐと浅野家の江戸詰め家臣として仕えた。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時、伊助は江戸にお…

原田甲斐

江戸時代前期の武士、仙台藩の家老。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「伊達騒動」の中心人物のひとりとして知られる。「甲斐」は通称で、名は宗輔(むねすけ)、幼名は弁之輔、初名は雅楽。父は仙台藩重臣・原田宗資(むねすけ…

伊藤仁斎

江戸時代前期の儒学者、思想家。「古義学派(堀川学派)」の祖として知られる。諱ははじめ維貞のち維禎、通称は源吉、源佐、源七、屋号は鶴屋七右衛門。仁斎は号であり、諡号は古学先生。京の堀川にて裕福な商家の子として生まれる。儒学…

山片蟠桃

江戸時代中期の商人、学者。本名は長谷川芳秀(よしひで)、通称は升屋小右衛門。播磨国印南郡神爪村(現・兵庫県高砂市)の農家に生まれ、13歳の時に大坂の伯父の養子となり両替商へ丁稚奉公へ出た。しかし本の虫だった蟠桃は役に立た…

松平定政

江戸時代前期の大名、三河国刈谷藩主。初代将軍・徳川家康の母である於大の方は祖母にあたり、家康は伯父にあたる。家康の異父弟・松平定勝の六男として生まれ、24歳の時、小姓として3代将軍・家光に仕えると順調に出世し、1649年…

平田篤胤

江戸時代後期の国学者、神道家、思想家、医者。復古神道(古道学)の大成者で、荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長とともに「国学四大人(しうし)」のひとりに数えられる。幼名は正吉、通称は半兵衛、元服後は胤行のち篤…

由井正雪

江戸時代前期の軍学者で、幕府転覆を図った「慶安の変」いわゆる「由井正雪の乱」の首謀者。出自については諸説あるが、駿河国由比の紺屋の子として生まれたとも、駿府宮ケ崎の岡村弥右衛門の子ともいわれる。17歳の時に奉公へ上がるた…

梅田雲浜

通称は源次郎。号は雲浜、湖南。 小浜藩士時代、藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、藩政批判ととられ藩籍を剥奪される。 その後、浪人として各地を遊説してまわり、尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。 当時の江戸の実権を…

福地桜痴

本名は福地源一郎(ふくちげんいちろう)。桜痴は号。 長崎で医師の息子として生まれた。幕末には「江湖新聞」を刊行。ジャーナリストとして危険を顧みずに新政府を批判し、明治初の言論弾圧事件の当事者となる。明治に入ると、政府系の…

阿部正弘

老中首座。ペリーの開国要求にあたり、安定した指導力を発揮できなかった第12代将軍・徳川家慶、第13代将軍・徳川家定の下で、かつてない挙国一致体制をつくりあげようとした。(安政の改革) 改革の一環である積極的な人材登用では…

寺内正毅

(1852~1919) 政治家。陸軍大将・元帥。長州藩出身。第一次桂内閣に入閣、以後陸相を歴任。1910年(明治43)初代朝鮮総督。16年(大正5)組閣して、シベリア出兵を断行、世論の批判を受け、米騒動により総辞職した。

桂太郎

(1847~1913) 政治家・陸軍大将。長州藩の人。ドイツ兵制を学び、陸軍建設に尽力。三度組閣し、日英同盟締結・日露戦争・韓国併合などに当たる。1913年(大正2)憲政擁護運動に批判されて辞職(大正政変)。

マーティン・ガードナー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/11/25 06:19 UTC 版)マーティン・ガードナー (英語: Martin Gardner、1914年10月21日 – 20…