黄蓋公覆こうがいこうふく
黄蓋、字を公覆といい、零陵郡の泉陵の人である。南陽太守の黄子廉の子孫、子は黄柄。黄蓋は、幼くして父を失い、若いときから不幸が重なって、つぶさに辛苦をなめた。しかし大きな志を持って、貧賤の中にあっても、みずからを凡庸な人々の列に落とすことなく、薪取りのひまには、いつも上表文の書き方を学び、兵法を研究していた。郡の役人となったあと、孝廉に推挙され、三公の府から官につくよう招聘をうけた。孫堅が義兵を挙げると、黄蓋はその配下に加わった。孫堅が南に山越の不服従民たちを撃ち破り、北では董卓を敗走させると、その功績で黄蓋は別部司馬の官を授かった。孫堅が逝去したあと、黄蓋は孫策の配下に入り、さらに孫権の配下に入って、みずから甲冑をつけて各地を転戦し、白刃を犯して城まちを攻略した。周瑜の配下として、曹操の軍の進出を赤壁でおし止め、火攻めの計略を進言した。偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。この火攻めの際、黄蓋は流れ矢に当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの黄蓋とわからなかったために負傷したまま厠に放置されてしまった。しかし、同僚である韓当が見つけて手当てさせたため、九死に一生を得た。この功績により、武峰中郎将の官を授かった。武陵郡の異民族たちが反乱を起こし、城を攻め落としてそこに立て籠った。そこで黄蓋が武陵郡の太守の任に当てられた。このとき、兵士はわずかに五百人で、反乱軍と対抗するのは不可能だと黄蓋は判断すると、城門を開き、反乱者たちの半分が城中に入ったところで、これに攻撃をかけて、数百人の首を斬った。のこりの者たちは、みな逃亡すると、すべてもとの部落にもどった。黄蓋は首謀者だけを誅殺し、つき従っていた者たちの罪は問わなかった。春から夏にかけて、反乱はすべて平定され、武陵郡領内は平穏になった。のちに、長沙の益陽県が山越の反乱者たちの攻撃を受けると、黄蓋がまたその平定にあたり、この功績で偏将軍を加官された。病気のため、黄蓋は在官のまま死去した。享年不明。黄蓋は、職務を処理するに際して決断が早く、事を引き延ばすことなく、呉国の人々はそうしたことで彼をしのんだ。孫権が皇帝の位に登ると、黄蓋の生前の功績を評価して、息子に爵位を授けた。別にまた黄蓋の肖像を画いて、季節ごとにお祭をした。死後、その配下の軍勢は孫皎が兄孫瑜の軍と共に指揮をしたと史書にあり、孫瑜が亡くなった215年頃に黄蓋もまた生涯を閉じたと思われる。小説『三国志演義』では「鉄鞭」を愛用武器としていた。赤壁に戦いにおいて衆寡敵せずと見た黄蓋は、周瑜に奇策を提案する。曹操に対し偽りの書簡を送り、先鋒となる自分が時期を計って裏切る旨を伝えた。その際に、偽りの投降を曹操に信じさせるため、諸将の前で周瑜との不和を演じ、また周瑜から棒たたきの刑を受けている。孫軍に潜んでいた間者である蒋幹が曹操にこれを報告し、曹操は黄蓋の投降が偽りではなく、周瑜に対する不満によるものと信じた。自らを傷つけることで敵に偽りを信用させ、起死回生の策を行ったこの黄蓋の行為が、苦肉の策の語源となった。合戦が始まると、黄蓋の部隊は投降を装って曹操軍に近づき、自軍の軍船に積んだ薪や油に火を放って曹操軍の船団に突入させた。ホウ統の連環の計によって船同士を鎖でつないでいた曹操軍はたちまち炎に包まれ、大打撃をこうむる事となった。その際、逃亡する曹操を見つけ追撃するものの、曹操配下の張遼から矢を受け負傷し撤退した。
反応