ボブ・ファルケンバーグ
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ボブ・ファルケンバーグ(Bob Falkenburg, 1926年1月29日 – )は、アメリカ・ニューヨーク出身の男子テニス選手。1948年のウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者で、4大大会の男子ダブルスでも1944年全米選手権と1947年ウィンブルドン選手権で2勝を挙げた。彼は後にブラジル人女性と結婚し、ブラジルへの帰化市民となった後に、男子テニス国別対抗戦・デビスカップにブラジル代表選手として出場した。右利きの選手。
ファルケンバーグは身長190cmほどの長身選手で、そこから繰り出すサービスは当時のアメリカ男子テニス界では最速と呼ばれた。高速サービスとネット・ダッシュが彼の最大の武器だったが、その独特なプレースタイルが当時のテニスファンに“ひょろひょろしたのっぽが、どたばたしたプレーをする”印象を与えたため、彼には“Daddy-Longlegs”(足長おじさん)というニックネームがつけられた。長身でかがみこんで休息をとる習癖からは“Praying Mantis”(祈るカマキリ)という別のニックネームもついたという。
ニューヨークで生まれたファルケンバーグは、少年時代の大半をカリフォルニア州で過ごした。テニス一家に生まれ育った彼は、兄弟のトムとともに「ロサンゼルス・フェアファックス高校」の代表選手としてプレーし、全米高校対抗テニスで優勝した。彼がテニス界にデビューした1942年は、ちょうど第2次世界大戦の戦時中であった。10代後半でアメリカ陸軍の空軍部に勤務しながら、彼は1943年に全米テニスランキングで「7位」に入る。戦時中も全米選手権だけは途切れることなく続行され、ファルケンバーグは1944年の全米選手権男子ダブルスでドン・マクニールとペアを組み、ここで最初の4大大会タイトルを獲得した。
1945年に第2次世界大戦が終結し、全豪選手権や全仏選手権、ウィンブルドン選手権などのテニス競技大会は1946年から開催が再開された。終戦の翌年、ファルケンバーグは全米選手権の男子シングルスで自己最高のベスト4に進んだが、この準決勝ではジャック・クレーマーに 0-6, 4-6, 4-6 で完敗した。1947年のウィンブルドン選手権で、ファルケンバーグとクレーマーは男子ダブルスのペアを組み、決勝でトニー・モットラム(イギリス)&ビル・シッドウェル(オーストラリア)組を 8-6, 6-3, 6-3 で破って優勝した。ファルケンバーグにとっては、これは1944年全米選手権以来2つ目の4大大会男子ダブルス優勝となった。クレーマーの著書『ゲーム-テニスにおけるわが40年』(The Game: My 40 Years in Tennis)によれば、ファルケンバーグは試合前にクレーマーから「ボビー、この試合に勝つには混合ダブルスの戦い方をするんだ。君が男性、僕が女性のようなプレーをする」と指示されたという。
ボブ・ファルケンバーグ
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基本情報 | |
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フルネーム | Robert Falkenburg |
国籍 |
アメリカ合衆国 ブラジル |
出身地 | ニューヨーク州ニューヨーク市 |
生年月日 | 1926年1月29日(93歳) |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1974年 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全仏 | 4回戦(1954) |
全英 | 優勝(1948) |
全米 | ベスト4(1946) |
優勝回数 | 1(英1) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全英 | 優勝(1947) |
全米 | 優勝(1944) |
優勝回数 | 2(英1・米1) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全米 | 準優勝(1945) |
反応