ボブ・ヒューイット
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ボブ・ヒューイット(Bob Hewitt, 1940年1月12日 – )は、オーストラリア出身で、南アフリカ共和国国籍で活躍した男子テニス選手。のちに強姦などの罪で禁固刑となった。
ニューサウスウェールズ州Dubbo市出身。フルネームはロバート・アンソニー・ジョン・ヒューイット(Robert Anthony John Hewitt) というが、愛称の「ボブ・ヒューイット」で最もよく知られる。1960年代から1970年代にわたり、ダブルスの名手として活躍した名選手である。最初はオーストラリアでテニス選手としての活動を始めたが、南アフリカの女性との結婚により、国籍を南アフリカに移し、フルー・マクミランとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。彼はテニスの歴史を通じて、男子ダブルス・混合ダブルスの2部門ですべての4大大会タイトルを獲得する「キャリア・グランドスラム」を達成した数少ない選手のひとりである。彼は1968年以後、プロテニス選手としてシングルス7勝・ダブルス65勝を獲得した。
ヒューイットはオーストラリアでテニス選手としての活動を始め、1958年全豪選手権が彼のデビュー戦だった。1960年に初めてシングルスのベスト4に入り、1961年の混合ダブルスでジャン・レヘインと組んで初優勝を果たす。1962年から1964年まで、ヒューイットはフレッド・ストールと組んで3年連続の男子ダブルス決勝に進出し、1963年と1964年に2連覇を達成した。ヒューイットとストールは、ウィンブルドン選手権の男子ダブルスでも1962年・1964年に2度優勝した。ところが、ヒューイットは南アフリカ出身の元モデル、ドレール・ニコラス(Delaille Nicholas)との結婚を決意する。ヒューイットは1964年に彼女と結婚し、南アフリカのヨハネスブルグに移った。それ以後、彼は南アフリカ国籍の選手となり、全豪選手権には出場しなくなった。オーストラリアで組んでいたストールの代わりに、彼は南アフリカでフルー・マクミランと出会い、彼とのコンビで多数のタイトルを獲得し始める。
オーストラリアにいた頃、ヒューイットは男子テニス対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手としてプレーしなかったが、1967年から南アフリカ代表選手としてデ杯に出場資格を得た。1967年のウィンブルドン選手権で、ヒューイットはマクミランとのコンビで初めての4大大会男子ダブルス優勝を果たす。彼にとっては、オーストラリア時代の1964年にストールと組んで以来、3年ぶり3度目のウィンブルドン・ダブルス優勝だった。1968年から、テニス4大大会にプロ選手の出場を解禁する「オープン化措置」が実施され、ヒューイットも直ちにプロテニス選手になる。1972年、ヒューイットとマクミランは全仏オープンとウィンブルドンで4大大会男子ダブルス2連勝を達成した。しかし、2人にはまだ全米オープンが残っていた。ようやく1977年、2人は全米オープン男子ダブルス決勝でブライアン・ゴットフリート(アメリカ)&ラウル・ラミレス(メキシコ)組を 6-4, 6-0 で破り、初優勝を決めた。ヒューイットは1962年全豪選手権から「15年がかり」で男子ダブルスのキャリア・グランドスラムを達成したが、全豪選手権はフレッド・ストールがパートナーであったため、マクミランとの同一ペアによるキャリア4冠にはならない。1978年のウィンブルドンで、ヒューイットとマクミランは若きジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組を 6-1, 6-4, 6-2 で破り、最後のタイトルを6年ぶりのウィンブルドンで獲得した。こうして、ヒューイットの4大大会男子ダブルス優勝記録は、ストールとの4勝とマクミランとの5勝を合わせて総計「9勝」になった。
ボブ・ヒューイット
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基本情報 | |
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フルネーム | Robert Anthony John Hewitt |
国籍 |
オーストラリア 南アフリカ共和国(1994年以前) |
出身地 | オーストラリア・シドニー |
居住地 | 南アフリカ共和国・東ケープ州 |
生年月日 | 1940年1月12日(79歳) |
身長 | 191cm |
体重 | 93kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1992年 (2012年資格停止) |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1958年 |
引退年 | 1983年 |
ツアー通算 | 72勝 |
シングルス | 7勝 |
ダブルス | 65勝 |
生涯通算成績 | 724勝294敗 |
シングルス | 243勝170敗 (オープン化後) |
ダブルス | 481勝124敗 |
生涯獲得賞金 | $613,837 (オープン化後) |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | ベスト4(1960・62・63) |
全仏 | 4回戦(1961・1963-65・67) |
全英 | ベスト8(1962・64・66) |
全米 | ベスト8(1967) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 優勝(1963・64) |
全仏 | 優勝(1972) |
全英 | 優勝(1962・64・67・1972・78) |
全米 | 優勝(1957) |
優勝回数 | 9(豪2・仏1・英5・米1) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全豪 | 優勝(1961) |
全仏 | 優勝(1970・79) |
全英 | 優勝(1977・79) |
全米 | 優勝(1979) |
優勝回数 | 6(豪1・仏2・英2・米1) |
国別対抗戦最高成績 | |
デビス杯 | 優勝(1974) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 6位 (1967, Lance Tingay) |
反応