フルー・マクミラン
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フルー・マクミラン(Frew McMillan, 1942年5月20日 – )は、南アフリカ・スプリングス出身の男子テニス選手。フルネームは Frew Donald McMillan (フルー・ドナルド・マクミラン)という。1960年代後半から1970年代にかけて、ダブルスの名手として活躍し、とりわけボブ・ヒューイットとのペアで多数のダブルス・タイトルを獲得した。キャリアの後半には、オランダのベティ・ストーブとの混合ダブルスで多くの好成績を出した。彼はフォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ちで、いつも白い帽子をかぶってプレーしたので、誰からも見分けのつく選手だったという。
マクミランは1965年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップの南アフリカ代表選手になり、1978年までその位置にあったが、14年間の代表経歴を通じてシングルス戦出場は2試合のみで、ごく早い時期からダブルスのスペシャリストとして活動を始めた。最初期のマクミランは、デビスカップのダブルスでキース・ディープラーム(Keith Diepraam)とペアを組んでいた。1966年、マクミランは全仏選手権の混合ダブルスでアネッテ・バン・ジル(同じ南アフリカの選手)とペアを組み、ここで最初の4大大会タイトルを獲得した。この年にボブ・ヒューイットと出会い、彼とのコンビで多数のタイトルを獲得し始める。ヒューイットはオーストラリア出身の選手であるが、南アフリカの女性との結婚により、1964年にオーストラリアを離れて南アフリカ市民権を取得した。1967年のウィンブルドン選手権で、マクミランはヒューイットとのコンビで初めての4大大会男子ダブルス優勝を果たす。パートナーのヒューイットは、まだオーストラリアにいた頃の1962年・1964年にフレッド・ストールと組んでウィンブルドン男子ダブルスに2勝を挙げていたが、マクミランにとっては初栄冠だった。
それから5年後の1972年、マクミランとヒューイットは全仏オープンとウィンブルドンで4大大会男子ダブルス2連勝を達成した。しかし、2人にはまだ全米オープンが残っていた。ようやく1977年、2人は全米オープン男子ダブルス決勝でブライアン・ゴットフリート(アメリカ)&ラウル・ラミレス(メキシコ)組を 6-4, 6-0 で破り、初優勝を決めた。1978年のウィンブルドンで、マクミランとヒューイットは若きジョン・マッケンロー&ピーター・フレミング組を 6-1, 6-4, 6-2 で破り、最後のタイトルを6年ぶりのウィンブルドンで獲得した。
シングルスでのマクミランは、1972年全米オープンのベスト8が自己最高成績であった。この準々決勝で、マクミランはクリフ・リッチー(ナンシー・リッチーの弟)に 6-3, 1-6, 4-6, 2-6 で敗れた。全仏オープンは1967年・1971年の3回戦、ウィンブルドンは1970年・1978年の3回戦が最高成績であり、全豪オープンは1971年が唯一の出場で、1回戦敗退に終わっている。
フルー・マクミラン
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基本情報 | |
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フルネーム | Frew Donald McMillan |
国籍 | 南アフリカ共和国 |
出身地 | 同・スプリングス |
生年月日 | 1942年5月20日(77歳) |
身長 | 183cm |
体重 | 75kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
殿堂入り | 1992年 |
生涯獲得賞金 | 609,072 アメリカ合衆国ドル |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | 1回戦(1971) |
全仏 | 3回戦(1967・71・72) |
全英 | 3回戦(1970・78) |
全米 | ベスト8(1972) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 1回戦(1971) |
全仏 | 優勝(1972) |
全英 | 優勝(1967・72・78) |
全米 | 優勝(1977) |
優勝回数 | 5(仏1・英3・米1) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全仏 | 優勝(1966) |
全英 | 優勝(1978・81) |
全米 | 優勝(1977・78) |
優勝回数 | 5(仏1・英2・米2) |
国別対抗戦最高成績 | |
デビス杯 | 優勝(1974) |
反応