イリ・ナスターゼ
![イリ・ナスターゼ イリ・ナスターゼ](https://satch.tv/sat2022/wp-content/uploads/actor-200px/200px-ilie_nc483stase_28davis_cup29.jpg)
イリ・ナスターゼ(Ilie Năstase, 1946年7月19日 – )は、ルーマニア・ブカレスト出身の男子プロテニス選手。1972年全米オープンと1973年全仏オープンの男子シングルスで優勝し、ルーマニア人のテニス選手として史上初の4大大会優勝者になった。当地最大のテニス選手であるナスターゼは、体操のナディア・コマネチと並んでルーマニアが生んだ最大のスポーツ選手のひとりに数えられる。1973年に世界ランキング1位の座につき、現役生活を通じてシングルス57勝、ダブルス45勝を挙げた。彼はまた、テニスの歴史を通じて最も個性的なキャラクターの選手でもあり、“Bucharest Buffoon”(ブカレストの道化師)というニックネームで呼ばれた。コートマナーが非常に悪く、物議を醸す振る舞いも多かったことから、語呂合わせで“Nasty Nastase”(癇癪持ちのナスターゼ)と呼ばれたこともある。身長182cm、体重75kg、右利き。
共産主義の小国ルーマニアから登場したイリ・ナスターゼが、最初に脚光を浴びたのは1966年の全仏選手権男子ダブルス決勝戦だった。この時、彼は7歳年上の親友イオン・ティリアックと組んでダブルス準優勝を記録している。ティリアックは元アイスホッケー選手で、1964年インスブルック五輪にルーマニア代表として出場するほどの選手だったが、後にテニスに転向した人である。ルーマニアは男子テニス国別対抗戦・デビスカップに1922年から参加していたが、ナスターゼとティリアックのコンビの出現により、1969年・1971年・1972年に3度の決勝進出を果たすところまで躍進した。ワールドグループ決勝戦では、3度ともアメリカに敗れて準優勝に終わっている。
1971年の全仏オープンで、ナスターゼは初めて4大大会の男子シングルス決勝進出を果たしたが、ヤン・コデシュ(チェコスロバキア)に 6-8, 2-6, 6-2, 5-7 で敗れて準優勝になる。1972年はウィンブルドンで決勝に進出したが、スタン・スミス(アメリカ)に 6-4, 3-6, 3-6, 6-4, 5-7 で敗れた。同年の全米オープンで、ついにルーマニア人のテニス選手として史上初の4大大会優勝を達成する。決勝戦でアーサー・アッシュを 3-6, 6-3, 6-7, 6-4, 6-3 のフルセットで破り、ルーマニアの名前を世界に知らしめた。1973年の全仏オープンで2年ぶり2度目の決勝戦に進み、今度はユーゴスラビアのニコラ・ピリッチ(「ニキ・ピリッチ」の愛称でよく知られる)に 6-3, 6-3, 6-0 で圧勝し、4大大会2冠を獲得する。この年に、ナスターゼは男子テニスの世界ランキング1位に輝いた。その後1976年にウィンブルドンで4年ぶり2度目の決勝に進出したが、今度はビョルン・ボルグに 4-6, 2-6, 7-9 のストレートで敗れ、テニスの聖地では2度の準優勝にとどまった。ボルグはここから前人未踏の大会5連覇が始まる。
ナスターゼは全豪オープンとはあまり縁がなく、出場はキャリア後期の1981年全豪オープン1回戦でクリス・ルイス(ニュージーランド)に敗れた1試合のみであった。
イリ・ナスターゼ
|
|
基本情報 | |
---|---|
国籍 | ルーマニア |
出身地 | 同・ブカレスト |
生年月日 | 1946年7月19日(73歳) |
身長 | 182cm |
体重 | 75kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1991年 |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1966年 |
引退年 | 1985年 |
ツアー通算 | 102勝 |
シングルス | 57勝 |
ダブルス | 45勝 |
生涯通算成績 | 1220勝500敗 |
シングルス | 741勝292敗 |
ダブルス | 479勝208敗 |
生涯獲得賞金 | $2,076,761 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | 1回戦(1981) |
全仏 | 優勝(1973) |
全英 | 準優勝(1972・76) |
全米 | 優勝(1972) |
優勝回数 | 2(仏1・米1) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全仏 | 優勝(1970) |
全英 | 優勝(1973) |
全米 | 優勝(1975) |
優勝回数 | 3(仏1・英1・米1) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全英 | 優勝(1970・72) |
全米 | 準優勝(1972) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 1位(1973年8月23日) |
ダブルス | 10位(1977年8月30日) |
反応