エイドリアン・クイスト
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エイドリアン・クイスト(Adrian Quist, 1913年8月4日 – 1991年11月17日)は、オーストラリア・南オーストラリア州メディンディア出身の男子テニス選手。フルネームは Adrian Karl Quist (エイドリアン・カール・クイスト)という。第2次世界大戦の戦前と戦後の両方の時代をまたいで、4大大会タイトルを獲得した選手として知られる。
男子シングルスでは全豪選手権で1936年・1940年・1948年に3勝を挙げたが、ダブルスで傑出した成績を挙げ、全豪選手権の男子ダブルス部門で前人未踏の「10連覇」を達成した。ウィンブルドン選手権の男子ダブルス部門でも、1935年と1950年に戦前と戦後をまたいで優勝している。戦時中はオーストラリア陸軍に勤務し、終戦後テニスに復帰した。
エイドリアン・クイストは1933年から男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手となったが、最初の年は「ヨーロッパ・ゾーン」決勝でイギリスに敗れた。その前の準決勝は日本との対戦で、クイストはジャック・クロフォードとのペアで日本チームの佐藤次郎&布井良助組に勝った。デ杯準決勝の前、クイストは全仏選手権のシングルス2回戦で布井に 6-2, 6-2, 1-6, 1-6, 4-6 の逆転で敗れたことがあり、その後も全仏との相性は良くなかった(1935年の4回戦が自己最高成績)。1934年のデ杯ヨーロッパ・ゾーン準々決勝で日本とオーストラリアが対戦した時は、クイストはクロフォードとのペアで山岸二郎&西村秀雄組を破っている。クイストとクロフォードのペアは、1935年に全仏選手権とウィンブルドン選手権の男子ダブルス部門で4大大会2連勝を達成した。
翌1936年、クイストは全豪選手権で男子シングルス・男子ダブルスの単複2冠を獲得した。シングルス決勝では同僚のジャック・クロフォードに 6-2, 6-3, 4-6, 3-6, 9-7 で競り勝ち、ダブルスではドン・ターンブル(Don Turnbull)とペアを組んで初優勝した。この年からクイストの全豪選手権男子ダブルス「10連覇」の記録が始まる。最初の2年間はターンブルとペアを組んだが、1938年から5歳年下のジョン・ブロムウィッチと組むようになった。クイストの戦前のテニス経歴の中で、デビスカップでの対日本戦は1933年・1934年・1938年の3度あった。1938年のデ杯対日本戦では、クイストは山岸二郎と中野文照にシングルス・ダブルスとも勝利したが、ブロムウィッチがシングルスで山岸に敗れている。クイストとブロムウィッチは1939年の全米選手権男子ダブルスでも優勝を飾ったが、その直前に第2次世界大戦の宣戦布告が発令された。1940年の全豪選手権で、クイストは再びシングルス決勝でジャック・クロフォードを破り、男子ダブルス5連覇と合わせて4年ぶり2度目の単複2冠を達成した。この大会の後、戦争の影響で全米選手権を除くテニス4大大会が開催中止となる。クイストは戦時中、オーストラリア陸軍に勤務した。
エイドリアン・クイスト
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基本情報 | |
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フルネーム | Adrian Karl Quist |
国籍 | オーストラリア |
出身地 | 同・南オーストラリア州メディンディア |
生年月日 | 1913年8月4日 |
没年月日 | 1991年11月17日(78歳没) |
死没地 | 同・ニューサウスウェールズ州シドニー |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1984年 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | 優勝(1936・40・48) |
全仏 | 4回戦(1935) |
全英 | ベスト8(1936) |
全米 | ベスト8(1933) |
優勝回数 | 1(豪1) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 優勝(1936-40・46-50) |
全仏 | 優勝(1935) |
全英 | 優勝(1935・50) |
全米 | 優勝(1933) |
優勝回数 | 14(豪10・仏1・英2・米1) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全仏 | 準優勝(1934) |
国別対抗戦最高成績 | |
デビス杯 | 優勝(1939) |
反応