ウィリアム・レンショー
ウィリアム・レンショー(William Renshaw, 1861年1月3日 – 1904年8月12日)は、イングランド・レミントン出身の男子テニス選手。フルネームはウィリアム・チャールズ・レンショー (William Charles Renshaw) という。1880年代に活躍し、黎明期のウィンブルドン選手権に「6連覇」を達成した選手として知られる。ウィンブルドン優勝7回は、ピート・サンプラスと並んで歴代2位。1925年にビル・チルデンに抜かれるまではグランドスラム優勝回数歴代1位タイ記録を保持していた。
双子の兄であるアーネスト・レンショーもテニス選手で、兄弟でウィンブルドン選手権のシングルス優勝を争ったり、ダブルスでペアを組んで活躍した。ウィリアムは愛称の「ウィリー」 (Willie) で呼ばれることも多かった。
1861年1月3日、イングランドのレミントンにあるレンショー家で双子の兄弟が誕生した時、先にアーネストが生まれ、15分後に弟のウィリアムが生まれた。世界最古のテニス・トーナメントであるウィンブルドン選手権は、1877年に第1回大会が行われた。双子の兄弟は1880年、19歳の時にウィンブルドン選手権のダブルスで初優勝し、以後7勝を記録する。1881年、20歳のウィリアム・レンショーは第5回大会の男子シングルス優勝者になった。当時の競技システムは、現在とは大きく異なっていた。まず「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)が行われ、大会前年優勝者を除くほかの選手たちがトーナメントを戦い、それを制した選手が前年優勝者と決勝を戦う「オールカマーズ・ファイナル」で優勝を決定していた。ウィリアム・レンショーは初優勝の時、チャレンジ・ラウンドの決勝でリチャード・リチャードソンを 6-4, 6-2, 6-3 で破り、オールカマーズ・ファイナルでは前年優勝者のジョン・ハートリーを 6-0, 6-1, 6-1 のストレート(試合時間37分)で圧倒した。
それから、ウィリアム・レンショーは前年優勝者としてチャレンジ・ラウンドの勝者を待つ立場に変わる。1882年と1883年は、挑戦者は双子の兄のアーネスト・レンショーで、1884年-1886年の3年連続でハーバート・ローフォードの挑戦を退けた。こうしてウィリアム・レンショーはウィンブルドン選手権の男子シングルスに大会「6連覇」を達成したが、その後テニス・エルボー(テニス肘)を患い、1887年の大会出場を断念する。チャレンジ・ラウンドに戻ったウィリアム・レンショーは、1888年は準々決勝でウィロビー・ハミルトン(アイルランド)に敗れ、予想外の早期敗退を喫した。1889年のチャレンジ・ラウンドで、レンショーは決勝でハリー・バーロウに苦戦し、第4セットと第5セットの窮地から大逆転の末 3-6, 5-7, 8-6, 10-8, 8-6 で勝利を収める。3年ぶりに戻ってきたオールカマーズ・ファイナルで、ウィリアムは1888年の優勝者であった兄のアーネストを 6-4, 6-1, 3-6, 6-0 で破り、3年ぶり「7度目」の優勝を飾った。しかし1890年の大会では、挑戦者のウィロビー・ハミルトンに 8-6, 2-6, 6-3, 1-6, 1-6 のフルセットで敗れ、それ以後はもう優勝できなかった。29歳まで、10年間におよぶ君臨期間であった。
ウィリアム・レンショー
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基本情報 | |
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フルネーム | William Charles Renshaw |
愛称 | Willie |
国籍 | イギリス |
出身地 | イングランド・レミントン |
生年月日 | 1861年1月3日 |
没年月日 | 1904年8月12日(43歳没) |
死没地 | イングランド・スワネージ |
身長 | 177cm |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1983年 |
生涯獲得賞金 | 値なし |
4大大会最高成績・シングルス | |
全英 | 優勝(1881-1886・1889) |
優勝回数 | 7(英7) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全英 | 優勝(1884-86・88-89) |
優勝回数 | 5(英5) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 1位 |
反応