ジュリー・ヘルドマン

ジュリー・ヘルドマン

ジュリー・ヘルドマン(Julie Heldman, 1945年12月8日 – )は、アメリカ・カリフォルニア州バークレー出身の元女子プロテニス選手。名門のテニス一家に生まれ育ち、1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカを代表する女子選手のひとりとして活動した。彼女はウィンブルドンを除く4大大会で女子シングルスのベスト4に入ったが、決勝戦には進出できず、故障のため早い年齢での現役引退を余儀なくされた。

母親のグラディス・ヘルドマン(1922年 – 2003年)は、1953年に雑誌『ワールド・テニス』を創刊したジャーナリストで、女子テニス協会のWTAツアーの創設に大きく貢献し、(選手ではない)「ジャーナリスト」部門で国際テニス殿堂入りした人物である。父親のジュリアスは、かつての全米選手権ジュニア・チャンピオンであり、グラディスは夫の影響でテニス振興活動に熱中し始めたという。ユダヤ系である

ジュリーはそのような家庭環境の中で、姉のキャリーとともに早くからテニスに親しみ、1960年から全米選手権に出場し始めた。1966年、ヘルドマンは初めて全仏選手権のベスト8に入る。1968年のメキシコ五輪では、テニスの非公式競技が「公開競技」(Demonstration)と「エキシビション」(Exhibition)に分かれて実施された。当時はまだ「アマチュアテニス選手」であったヘルドマンは、このメキシコ五輪の非公式競技に参加し、「公開競技」で女子シングルス銅メダル・女子ダブルス銀メダル・混合ダブルス金メダル、「エキシビション」で女子シングルス銀メダル・女子ダブルス金メダルを獲得した。

ヘルドマンは1969年から「プロテニス選手」に転向し、この年に全仏オープン・ウィンブルドン・全米オープンの3大会連続でベスト8に進出し、世界ランキングで自己最高の「5位」に入った。この頃、女子テニス界はシステムの転換点を迎え、9人の女子プロ選手たちが全米テニス協会(USTA)を離脱して、テキサス州ヒューストンに本拠を置く「バージニア・スリムズ・サーキット」というプロテニスツアーに参加を決定した。ジュリーはビリー・ジーン・キング夫人、ロージー・カザルス、ナンシー・リッチー、ジュディ・テガート・ドールトン、ケリー・メルビル、クリスティ・ピジョン、ヴァレリー・ジーゲンフス、ピーチズ・バルトコビッツと並んで「ヒューストンの9人」(Houston Nine)と呼ばれ、ジュリーの母親グラディスが「バージニア・スリムズ・サーキット」を全面的に支援した。このサーキットは商業的な成功を収め、こうして現在のような女子プロテニスツアーの原型が据えられた。ヘルドマンはその後、1970年全仏オープンで初の準決勝に進出したが、ここではマーガレット・コート夫人に 0-6, 2-6 で完敗した。

ジュリー・ヘルドマン
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 同・カリフォルニア州バークレー
生年月日 (1945-12-08) 1945年12月8日(73歳)
利き手
ツアー経歴
デビュー年 1960年
引退年 1976年
生涯獲得賞金 値なし
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1974)
全仏 ベスト4(1970)
全英 ベスト8(1969)
全米 ベスト4(1974)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト4(1974)
全仏 ベスト4(1968-70)
全英 ベスト4(1969・74)
全米 ベスト8(1968・69)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 5位(1969年)

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