アンナ・クルニコワ
![アンナ・クルニコワ アンナ・クルニコワ](https://satch.tv/sat2022/wp-content/uploads/actor-230px/230px-anna_kournikova-bagram_airfield_2009.jpg)
アンナ・クルニコワ (Anna Kournikova, ロシア語: А́нна Серге́евна Ку́рникова, 1981年6月7日 – )は、ロシア・モスクワ出身の女子プロテニス選手。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで16勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは8位。彼女のいとこにあたるエフゲニー・コロレフもプロテニス選手になった。
5歳からテニスを始め、モスクワ市内にある名門「スパルタクラブ」でテニスを学ぶ。(同じ年の幼なじみとしてアナスタシア・ミスキナやエレーナ・デメンチェワがいた。)早熟な才能はたちまち評判になり、1992年2月からアメリカ・フロリダ州の「ニック・ボロテリー・テニスアカデミー」に留学した。ジュニア時代には1995年の「オレンジボウル選手権」の優勝などがある。同年に14歳でプロ転向。
1996年の全米オープンで、クルニコワは15歳で4大大会にデビューを果たす。予選を勝ち上がり、本戦の4回戦で第1シードのシュテフィ・グラフに挑戦した。1997年のウィンブルドンでベスト4に進出し、準決勝でマルチナ・ヒンギスとの“16歳対決”に敗れる。1998年3月の「リプトン国際選手権」でWTAツアー初の決勝進出を果たすが、ビーナス・ウィリアムズとの“10代対決の決勝”に敗れた。同年6月中旬、ウィンブルドン選手権の前哨戦・イーストボーンの準々決勝で、長期の故障から復帰したばかりのシュテフィ・グラフを 6-7, 6-3, 6-4 のフルセットで破った。ところが、この試合中にクルニコワは指を痛め、ウィンブルドンの出場断念を余儀なくされた。
その後、クルニコワのテニス成績は期待されたほど伸びず、4大大会のシングルスではほとんど4回戦止まりであった。1997年ウィンブルドンベスト4以後の4大大会成績は、2001年の全豪オープンベスト8がある。
クルニコワは女子テニスツアーでのシングルス優勝はなく、人気先行のイメージを払拭することが出来なかった。2003年5月を最後に、クルニコワはツアーイベントへの出場が途絶えてしまった。
アンナ・クルニコワ(2009年)
|
|
基本情報 | |
---|---|
フルネーム | Anna Sergeyevna Kournikova |
国籍 | ロシア |
出身地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
居住地 | アメリカ合衆国、マイアミ |
生年月日 | 1981年6月7日(38歳) |
身長 | 173cm |
体重 | 56kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1995年 |
引退年 | 2003年 |
ツアー通算 | 16勝 |
シングルス | 0勝 |
ダブルス | 16勝 |
生涯通算成績 | 409勝200敗 |
シングルス | 209勝129敗 |
ダブルス | 200勝71敗 |
生涯獲得賞金 | $3,584,662 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全豪 | ベスト8(2001) |
全仏 | 4回戦(1998・99) |
全英 | ベスト4(1997) |
全米 | 4回戦(1996・98) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全豪 | 優勝(1999・2002) |
全仏 | 準優勝(1999) |
全英 | ベスト4(2000・02) |
全米 | ベスト8(1996・2002) |
優勝回数 | 2(豪2) |
4大大会最高成績・混合ダブルス | |
全豪 | ベスト4(1997・2000) |
全仏 | ベスト8(1997) |
全英 | 準優勝(1999) |
全米 | 準優勝(2000) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 8位(2000年11月20日) |
ダブルス | 1位(1999年11月22日) |
反応