富田常次郎
富田 常次郎(とみた つねじろう、1865年2月 – 1937年1月13日)は、日本の柔道家(講道館7段・大日本武徳会柔道範士)。旧姓山田。
青年期より講道館創始者の嘉納治五郎と寝食を共にし、同館で最初の入門者・初段位取得者となって“講道館四天王”の1人に数えられた。後に米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽力し、その多大な功績から“講道館柔道殿堂”にも選ばれている。
1865年、伊豆国君沢郡久連村(現・静岡県沼津市)の山田家に生まれる。
明治維新後、嘉納治五郎の父・治郎作(希芝)が海軍省の官材課長を務めていた頃、御用材の伐採の為に年2,3回天城山を訪れた折に伐採従事者のため韮山に設けられた病院でしばしば休憩・食事をしており、この病院長夫人の弟である常次郎と知り合った。
治郎作は当時14歳で利発な常次郎にその才を見出して「どうじゃ、わしの倅(治五郎)と東京で一緒に勉強しないか」と誘い、これを受けた常次郎は上京して嘉納家の書生となった。
治五郎は1882年6月、下谷の永昌寺境内に僅か12畳の仮道場を設けて常次郎と2人で稽古を始め、その年の内に樋口誠康、有馬純文、牛島辰吉、松岡寅男麿、有馬純臣、志田四郎、中嶋源二郎、川合慶次郎の8人が入門。1883年8月には志田と共に講道館で最初の初段位を許された。1884年に作成された『講道館修行者誓文帳[注釈 1]』ではその筆頭に常次郎の名があり、「静岡県伊豆国伊沢郡久連村38番地、山田半七弟、平民常次郎、17年6ヶ月」と記されている(常次郎は当時19歳であったが、2年遡って作成されたため“17”と記されている)。
同じ頃、治五郎は東京帝国大学を卒えて学習院の教師を任ぜられ、永昌寺の一室を間借りして東京帝大や学習院の学生の何人かを預かる事となり、当時17歳の常次郎は勉学に励む傍ら治五郎の書生として身の回りの世話をこなした。
その後、常次郎は伊豆の回船問屋であった富田家の養子となり、以後は富田姓を名乗った。
とみた つねじろう
富田 常次郎 |
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生誕 |
1865年2月??日 伊豆国君沢郡久連村 |
死没 | 1937年1月13日(71歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 柔道家 |
著名な実績 |
講道館最初の入門者・段位取得者 講道館殿堂 |
流派 |
講道館(7段) 大日本武徳会(柔道範士) |
子供 | 富田常雄 |
反応