東郷茂徳
東郷 茂徳(とうごう しげのり、旧字体: 東鄕茂德、生名:朴茂德、1882年(明治15年)12月10日 – 1950年(昭和25年)7月23日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。
萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った。苗代川の住民の多くは「郷士」よりも下の地位に位置づけられたが、前記の保護ともあわせて手厚く遇された。しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には苗代川の男子364人の連名で「士籍編入之願」が鹿児島県庁に提出された。この364人の中には、祖父・朴伊駒も名を連ねていた。しかし、士族への編入は1885年の最後の請願まで却下され続けた。その翌年にあたる1886年、朴家は東郷を名乗る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、9月6日付で当時満4歳まであと3ヶ月だった茂徳は「東郷茂徳」となった。なお、鹿児島では「東郷」姓はありふれたもので、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係である。茂徳の父・壽勝は陶工ではなかったものの、雇った陶工の作った作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いたという。
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生年月日 | 1882年12月10日 |
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出生地 | 鹿児島県日置郡苗代川村 |
没年月日 | 1950年7月23日(67歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 東京帝国大学 |
所属政党 | 無所属倶楽部 |
配偶者 | 東郷エヂ |
子女 | 東郷いせ |
第71代 外務大臣
第4代 大東亜大臣 |
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内閣 | 鈴木貫太郎内閣 |
在任期間 | 1945年4月9日 – 1945年8月17日 |
第65代 外務大臣
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内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1941年10月18日 – 1942年9月1日 |
第21代 拓務大臣
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内閣 | 東條内閣 |
在任期間 | 1941年10月18日 – 1941年12月2日 |
貴族院議員
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在任期間 | 1942年9月1日 – 1946年4月13日 |
反応