岩畔豪雄

岩畔 豪雄(いわくろ ひでお、1897年10月10日 – 1970年11月22日)は、日本の陸軍軍人、最終階級は陸軍少将。後方勤務要員養成所(陸軍中野学校)設立者、京都産業大学設立者の一人で元理事

広島県安芸郡倉橋島(現・呉市)出身。倉橋島は海軍兵学校があった江田島の隣の島である。広島中学校(現広島県立国泰寺高校)から名古屋陸軍地方幼年学校・陸軍中央幼年学校本科を経て、1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校(30期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官、北越の新発田歩兵第16連隊付となる。すでにこの頃から思索性に冨み参禅を始めたといわれる。1919年(大正8年)9月、シベリア出兵、1年余に渡り寒地のパルチザン戦に参加。続いて1921年(大正10年)8月には台湾歩兵第1連隊付として熱地の台中に赴任。成績は優等ではなかったが1922年(大正11年)に山県有朋が死に、長州出身者が陸軍大学校試験の面接段階で全員落とされるという時の勢いに助けられ陸大入学。1926年(大正15年)12月陸軍大学校(38期)修了。1928年(昭和3年)陸軍の物流を管理する整備局統制課に勤務。1929年(昭和4年)から整備局に関わった小磯國昭少将の提灯持ちとなる。傍ら1930年(昭和5年)に結成された陸軍内の青年将校の結社「桜会」に参加、国家改造案の研究を行う。「阿呆らしくて行く気にならない」と言っていたという説もある。満州事変の翌1932年(昭和7年)8月、小磯に請われ満州に出向。関東軍参謀、対満事務局事務官として新国家満州国の組織の整備、及び産業の育成など経済事務の骨組み作りを担当。計画経済の優位を書生風に信じた岩畔は、株式会社であった南満州鉄道を国有化しようとして松岡洋右や内地の財界人の反発を買う。同局殖産課では渡辺武と机を並べて仕事をした。いかなる分野でも、名案尽きることなく溢れ、名文章のペーパーにも変換できる奇抜な軍人であった

岩畔豪雄
生誕 1897年10月10日
日本 広島県 安芸郡倉橋島
死没 (1970-11-22) 1970年11月22日(73歳没)
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1918年 – 1945年
最終階級 少将
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