栗田健男

栗田 健男(くりた たけお、1889年4月28日 – 1977年12月19日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。海軍兵学校38期卒業。

1889年4月28日、茨城県水戸市で、父・栗田勤の次男として生まれる。母は佐藤脩の妹。父は漢学者であり、大日本史編集員も務めた。祖父は東京帝大教授の文学博士栗田寛(藤田東湖、会沢正志斎の弟子)。水戸藩士の家系であり、祖先は清和源氏に連なるというが、元禄時代に水戸に移り油屋を生業とした。父の訓育は水戸の気風を反映し無骨と不言実行をモットーとしたという。青年時代の栗田は学問は出来、頑張りやその上に高い人格を持っていた

旧制水戸中学校(現茨城県立水戸第一高等学校)を経て、1910年7月18日、海軍兵学校を38期生として149名中28番の成績で卒業。少尉候補生として練習航海に出発。1911年12月、海軍少尉に任官し、「龍田 (通報艦)」に乗組。1912年12月、水雷学校普通科学生を拝命。1913年5月、砲術学校普通科学生を拝命。12月、海軍中尉に昇進し、戦艦「薩摩」に乗組。1915年3月、駆逐艦「榊」の分隊士に任命。1915年6月、巡洋艦「磐手」に乗組。1916年10月、佐世保海兵団分隊長に任命。12月、海軍大尉に昇進し、巡洋艦「利根」分隊長の任命。1917年12月、海軍大学校乙種学生を拝命。1918年4月、水雷学校高等科学生を拝命。12月、駆逐艦「峯風」水雷長に任命。1919年6月、第五戦隊参謀に任命。1920年3月、駆逐艦「矢風」水雷長に任命。6月、駆逐艦「羽風」水雷長に任命。12月、時雨 (初代神風型駆逐艦)艦長に任命。1921年8月、追風 (初代神風型駆逐艦)艦長に任命。9月、第四戦隊参謀に任命。11月、水雷学校教官に任命。1922年12月、海軍少佐に昇進。1924年12月、第二号駆逐艦長。1925年12月、駆逐艦「萩」艦長に任命。1926年12月、駆逐艦「浜風」艦長に任命。1927年12月、海軍中佐に昇進し、駆逐艦「浦風」艦長に任命。1928年12月、水雷学校教官に任命。1930年3月、呉工廠魚雷実験部員に任命。1930年11月、第25駆逐隊司令に任命。1932年5月、第10駆逐隊司令に任命。1932年12月1日、海軍大佐に昇進し、第十二駆逐隊司令に任命。1934年11月15日、阿武隈艦長に任命。1935年11月15日、水雷学校教頭に任命。
1937年12月1日、金剛艦長に任命。当時、大変な無作法をした初級士官を怒鳴りつけながらも赦し、この士官は栗田のためなら「命は要らん」と泣きながら語った。1938年11月15日、少将に昇進し、第一水雷戦隊司令官に任命。1939年11月25日、第四水雷戦隊司令官に任命。

海軍中将時代の栗田健男
生誕 1889年4月28日
日本 茨城県水戸市
死没 1977年12月19日
日本 兵庫県西宮市
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1910年 – 1945年
最終階級 海軍中将(海軍兵学校校長)
除隊後 筆耕業
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