源田実

源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 – 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、紫電改で有名な第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。航空自衛隊の育ての親。政治家としては参議院議員を4期24年務めた。赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。

源田実は1904年(明治37年)8月16日、広島県山県郡加計町(現・山県郡安芸太田町)で酒造・農業を営む源田春七の六男二女の次男として生まれた。運動は得意ではなく小柄だったが、身体は頑健であった。1921年(大正10年)、希望していた海軍兵学校に海兵52期として入学する[注釈 1]。1924年(大正13年)7月24日、236名中17位で海軍兵学校を卒業、少尉候補生。1927年(昭和2年)2月、海軍砲術学校普通科学生(少尉)時に航空関係の講習・身体検査・操縦を受ける。4月、砲術学校普通科卒業。7月、海軍水雷学校普通科を卒業し、装甲巡洋艦「出雲」乗組。12月、海軍中尉に昇進。

1928年(昭和3年)12月、霞ヶ浦海軍航空隊に入隊、第19期飛行学生を拝命する。源田は「海軍生活24年間を通じてこの転勤ぐらい嬉しいと思った辞令は一度もなかった」という。定点着陸を見よう見まねで挑戦して失敗してからは1年ほどトラウマになり着陸には余裕がなかったという。1929年(昭和4年)12月、第19期飛行学生を戦闘機パイロットとして首席で修了、恩賜の銀時計を拝受する。1929年(昭和4年)12月、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊に配属となる。2月、多段式空母「赤城」に戦闘機分隊第二小隊編隊長(一〇式艦上戦闘機)として着任した。12月、大尉。横須賀海軍航空隊付[10]。日本海軍が英国から招いたチャッペル少佐とウィンゲート大尉を航空教官として開いた講義に参加する[11]。源田によれば戦闘機で敵地上飛行場の封鎖を説いたチャッペル少佐の講義はもっと海軍一般で広く研究されるべきものであったという[12]。1931年(昭和6年)2月、「赤城」に配属[13]。12月、霞ヶ浦航空隊分隊長(教官)に配属されたため、1932年(昭和7年)7月の第一次上海事変には不参加[14]。11月、横須賀航空隊教官。1933年(昭和8年)12月、空母「龍譲」分隊長 (兼横空付教官)配属。

生誕 1904年8月16日
日本 広島県 山県郡加計町
(現・安芸太田町)
死没 (1989-08-15) 1989年8月15日(84歳没)
日本 愛媛県松山市
所属組織 大日本帝国海軍
航空自衛隊
赤十字飛行隊
自由民主党
軍歴 1924 – 1945(日本海軍)
1954 – 1962(空自)
最終階級 海軍大佐(日本海軍)
航空幕僚長たる空将(空自)
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