黒島亀人

黒島 亀人(くろしま かめと、1893年(明治26年)10月10日 – 1965年(昭和40年)10月20日)は、日本の海軍軍人。海兵44期卒業。最終階級は海軍少将。

1893年(明治26年)10月10日、広島県安芸郡(現呉市)吉浦町で石工の亀太郎の息子として生まれる。亀人が3歳のとき、実父は出稼ぎに行ったロシアで急死し、実母ミネは離縁されて実家に帰った。亀人は石工・鍛冶屋の叔父・黒島重郎の養子となる

小学校を卒業後は、呉市の海城中学の夜間部に通っていたが、広島市の私立明道中学の4年に編入した。昼は養父の仕事を手伝い、夜は学校に通った。勤勉で頭もよかったが、風変わりと陰口も叩かれていた。養父母は黒島が医者になることを希望したが、亀人は一生官吏として生活できる軍人になるために海軍兵学校の受験を選んだ。1913年(大正2年)9月3日、海軍兵学校44期に100人中60番の成績で入学。海兵時代は禅・宗教・哲学に熱中していた。1916年(大正5年)11月22日、95名中34番の成績で卒業、少尉候補生。練習艦隊「常磐」に乗組、近海航海に出発し、1917年(大正6年)3月3日に帰着。4月5日、練習艦隊で遠洋航海に出発し、8月17日に帰着。戦艦「山城」乗組。12月、少尉任官。1918年(大正7年)7月2日亀人が大切にしていた養母ミツが腸チフスで死去。亀人は乗艦である「山城」から病院に急行、面会禁止の規制を無視して看病をおこなっていた。11月9日、装甲巡洋艦「八雲」乗組。

1919年(大正8年)12月1日、中尉進級し、海軍水雷学校普通科学生拝命。1920年(大正9年)5月31日、海軍砲術学校普通科学生。1921年(大正10年)12月1日、巡洋戦艦「金剛」分隊長心得。1922年(大正11年)12月、大尉進級し、海軍砲術学校高等科学生。1923年(大正12年)12月1日、卒業し、駆逐艦「波風」乗組。1925年(大正14年)7月、広島市西条町の旅館「大正館」の長女・森マツノと結婚。12月1日、砲術学校教官。

生誕 1893年10月10日
広島県安芸郡(現呉市)
死没 (1965-10-20) 1965年10月20日(72歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1916年 – 1945年
最終階級 海軍少将
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