五藤存知
五藤 存知(ごとう ありとも、1888年(明治21年)1月23日 – 1942年(昭和17年)10月12日)は、日本の海軍軍人。海軍兵学校(38期)卒。最終階級は海軍中将。
尾張国黒田の出身で、山内一豊に仕えた五藤為浄(通称吉兵衛)の子孫。父五藤近知と母加根の三男。父近知は水戸家の徳川斉昭に仕え、書家で水戸東照宮の明治に入っての初代宮司も務めた。妻恵津との間に美津、和子、尚子、たけ男、達子、厖(あつし)と六人いたが、和子、尚子、たけ男の三人は夭折。
同期に栗田健男、三川軍一らがいる。専門は水雷戦術で、駆逐艦や戦艦「山城」・「陸奥」の艦長を歴任した。太平洋戦争開戦直前に第6戦隊司令官となり、開戦後はトラックへ進出してウェーク島攻略作戦、珊瑚海海戦、第1次ソロモン海戦に参加。
1942年10月12日、サボ島沖海戦で敵艦を僚艦と誤認、乗船していた重巡洋艦「青葉」の艦橋に敵弾が命中して両足を吹き飛ばされ、出血多量で戦死した。最後まで同士討ちと信じていたらしく、「馬鹿者、馬鹿者」と言いながら絶命したと伝えられる。享年54。戦死後、海軍中将へ昇進。
生誕 |
1888年1月23日 日本 茨城県 |
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死没 | 1942年10月12日(54歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
最終階級 | 海軍中将 |
反応