南雲忠一
南雲 忠一(なぐも ちゅういち、1887年(明治20年)3月25日 – 1944年(昭和19年)7月6日)は、日本の海軍軍人。海兵36期。太平洋戦争初期から中期にかけて第一航空艦隊および第三艦隊(南雲機動部隊)司令長官を務めた後、サイパンの戦いで自決。死後一階級特進により、最終階級は海軍大将。正三位勲一等功一級。
1887年3月25日、山形県南置賜郡米沢信夫町(現在の米沢市)で、郡役所書記の父・南雲周蔵と母・志んの次男として生まれる。6人兄弟姉の末子であった。
父の周蔵は旧米沢藩士であり、藩では御扶持方(中士階級)でもあった。
米沢尋常中学興譲館を経て、1905年(明治38年)海軍兵学校36期に入校。海軍兵学校では三号、二号生徒でそれぞれ学術優等賞を授与された。1908年(明治41年)、海兵36期を191人中5番の成績で卒業[注釈 1]。海軍少尉候補生となり、巡洋艦「宗谷」乗組。
生誕 |
1887年3月25日 日本 山形県米沢市 |
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死没 |
日本 サイパン島 |
1944年7月6日(57歳没)
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1908年 – 1944年 |
最終階級 | 海軍大将 |
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