野中五郎

野中五郎

野中 五郎(のなか ごろう、1910年(明治43年)11月18日 – 1945年(昭和20年)3月21日)は、日本の海軍軍人。特攻兵器「桜花」を擁する神雷部隊指揮官として九州沖航空戦に参加。最終階級は戦死による二階級特進で海軍大佐。海兵61期卒。

1910年11月18日に東京府四谷で陸軍少将である父野中勝明のもとに生まれる。本籍地(出身)は岡山県岡山市。兄に野中次郎陸軍中佐、二・二六事件の首謀者の一人で自決した野中四郎陸軍大尉がいる。五郎は仲のよかった姉が海軍士官(安藤憲栄少将)と結婚したことが契機となって海軍を志す。東京府立四中を経て、1933年(昭和8年)11月に海軍兵学校(61期)卒業、少尉候補生。海兵時代は落第を経験する一方で鈴木實と親しかった。1935年(昭和10年)4月海軍少尉任官。1935年10月第27期飛行学生(1936年11月まで)。飛行学生を共に過ごした巌谷二三男海軍少佐によると、べらんめえ調の江戸っ子弁を使い、私室に香を焚き、茶の湯を楽しんでいたという。乗機にも茶道具一式を持ち込んで、戦場到着30分前に喉を潤し、頭に血の上っている部下にもふるまって落ち着かせた

これはあくまでも同僚や部下の前で見せる自己演出であり、家族に対してはべらんめえ調は使わず、また家庭での趣味は園芸とクラシック音楽の鑑賞だった。艦上攻撃機搭乗員として空母「蒼龍」に配属されたが、間もなく陸上攻撃機乗りに転身した。1937年(昭和12年)12月海軍中尉進級。1938年(昭和13年)11月海軍大尉進級。

1941年(昭和16年)9月第1航空隊分隊長。1941年12月太平洋戦争勃発。開戦時はフィリピン空襲に参加。1942年(昭和17年)8月第1航空隊飛行隊長。11月第752航空隊飛行隊長。ギルバート諸島沖航空戦、マーシャル諸島沖航空戦で対機動部隊攻撃に参加。1943年(昭和18年)11月海軍少佐進級。1944年(昭和19年)4月攻撃第703飛行隊隊長。

野中が考えた戦法として、敵の艦隊を暗夜の洋上にとらえると、単縦陣の体形で遠巻きの旋回を繰り返し、折を見て照明弾を投下し、各機が四方八方から敵艦に殺到し魚雷を放ち、敵艦がどう回避しようと魚雷のどれかが当たるというものであった。野中はこの戦術を「車がかり竜巻戦法」と自称していたが、実践したことはなかった

生誕 1910年11月18日
日本 東京府四谷区
死没 (1945-03-21) 1945年3月21日(34歳没)
日本 宮崎県都井岬沖
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1934 – 1945
最終階級 海軍大佐
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