美濃部正
美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年7月21日 – 1997年6月12日)は、日本の海軍軍人、航空自衛官である。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将。
1915年7月21日、愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる。父親の太田喜四郎は若くして、今の農業協同組合にあたる信用購買販売組合を立ち上げたり、消防団の創設に関わったりと地元の名士であったが、家業の養蚕の不振や、投機の失敗により多額の負債を抱えたのにも関わらず、名士の活動に熱心で家業は妻に任せっきりにしており、美濃部が物心ついたときには生活に困窮していた。美濃部が小学2年生の夏、8歳になったときに、逢妻川でオオウナギを捕まえて、自宅に持ち帰ったところ、その日の夕食のおかずとなり、家族全員で蒲焼にして食べた。すると美濃部だけが食中毒となってしまい、下痢と高熱が1か月も続いて髪の毛も抜け落ちてしまった。医者からは腸チフスと診断され一時期は命にもかかわる重症となったが、どうにか全快した。しかし、このときの後遺症は終生美濃部を悩ませることとなり、学生時代は虚弱児に認定され、成人しても胃腸はずっと弱く太れない体質となり、体力増強が人生での最優先の課題となってしまった。
1928年4月に地元の新設校刈谷中学に入学、第一次世界大戦の青島の戦いで、青島要塞に設置されたドイツ軍要塞砲へのモーリス・ファルマン水上機による爆撃任務で活躍した父親を持つ同級生がおり、その同級生から父親の武勇伝を聞かされたことにより、パイロットへの憧れが強くなっていったが、腸チフスにより体力増強が必要だった美濃部は、担任の薦めもあり学業よりは柔道に精を出しており、成績は決してよくはなかった。そのため、パイロットになるためには海軍兵学校への入学が必要ながら、美濃部本人および父親にも担任からは合格は難しいという進路指導があっていた。しかし、一足先に海軍兵学校に入学していた兄の太田守からの励ましもあり試験に合格して、1933年4月1日に海軍兵学校64期生として入学した。同期に川島立男(首席)、石田捨雄(後の海上幕僚長)らがいる。海軍兵学校でも虚弱体質の問題は解消されず、厳しい訓練についていくことができずに、3学期には2か月余りも病院に入院しての加療が必要となり単位不足となって留年も危ぶまれた。留年するぐらいであれば退学しようとも考えたが、どうにか進級できるとその後は徐々に体力もつき訓練や教練にもついていけるようになった。得意・不得意分野の差が大きく、成績は教官よりしばしば苦言を呈されるほど悪かった。1937年3月23日、同期生160名と卒業、少尉候補生となる。1937年11月5日、軽巡洋艦「由良」乗組。1938年3月10日、海軍少尉に任官。
ショートランド諸島ブカ島での美濃部、第938航空隊飛行隊長時代
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渾名 | 特攻に反対した指揮官 |
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生誕 |
1915年7月21日 大日本帝国 愛知県碧海郡高岡村吉原(現豊田市吉原町) |
死没 |
1997年6月12日 日本 愛知県豊田市高岡町 |
所属組織 |
大日本帝国海軍
航空自衛隊 |
軍歴 | 1937 – 1970 |
最終階級 | 少佐(日本海軍)、空将(航空自衛隊) |
除隊後 | 日本電装学園(現デンソー工業学園)学園長 |
反応