マルティン・ボルマン
マルティン・ルートヴィヒ・ボルマン(Martin Ludwig Bormann、1900年6月17日 – 1945年5月2日)は、ドイツの政治家。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)総統アドルフ・ヒトラーの側近・個人秘書を長らく務め、その取り次ぎ役として権力を握った。ルドルフ・ヘスの失脚後は官房長となり、党のナンバー2となった。親衛隊名誉指導者でもあり、親衛隊における最終階級は親衛隊大将。ヒトラーの政治的遺書によって党担当大臣として指名されたが、ベルリン陥落の混乱の中で消息を絶った。戦後長い間行方不明とされてきたが、総統地下壕脱出の際に青酸で服毒自殺していた事が近年証明された。
ドイツ帝国プロイセン王国ザクセン州(現在はザクセン=アンハルト州)のハルバーシュタット近郊のヴェーゲレーベンに生まれた。父は郵便局員テオドール・ボルマン(Theodor Bormann)。母はその妻で郵便代理人の娘アントニエ(Antonie)(旧姓メンノン、Mennong)。父テオドールは短期間だがプロイセン胸甲騎兵連隊の軍楽隊でトランペット奏者をしていたことがある。父の軍内での階級は特務曹長だった。
1934年
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生年月日 | 1900年6月17日 |
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出生地 |
ドイツ帝国 プロイセン王国 ザクセン州ヴェーゲレーベン |
没年月日 | 1945年5月2日(44歳没) |
死没地 |
ドイツ国 プロイセン州 ベルリン |
所属政党 | 国家社会主義ドイツ労働者党 |
配偶者 | ゲルダ・ボルマン |
親族 | アルベルト・ボルマン(弟) |
党救済基金責任者
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在任期間 | 1930年8月25日 – 1933年7月3日 |
副総統個人秘書兼官房長
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在任期間 | 1933年7月4日 – 1941年5月11日 |
ドイツ国会議員
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選挙区 | 5区(フランクフルト・アン・デア・オーダー地区) |
在任期間 | 1933年11月12日 – 1945年5月2日 |
官房長官
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在任期間 | 1941年5月12日 – 1945年4月30日 |
ドイツ国党大臣
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内閣 | ゲッベルス内閣 |
在任期間 | 1945年4月30日 – 1945年5月2日 |
その他の職歴
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総統秘書兼個人副官 (1943年4月12日 – 1945年4月30日) |
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国民突撃隊政治・組織指導者 (1944年9月25日 – 1945年5月2日) |
反応