ヴャチェスラフ・モロトフ
ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ(ロシア語: Вячеслав Михайлович Молотов、ラテン文字表記の例:Vyacheslav Mikhailovich Molotov、ヴィチスラーフ・ミハーイラヴィチュ・モーラタフ、1890年3月9日(ユリウス暦2月25日) – 1986年11月8日)は、ソビエト連邦の政治家、革命家。同国首相、外務人民委員、外相(1946年以後)を歴任し、第二次世界大戦前後の時代を通じてヨシフ・スターリンの片腕としてソ連外交を主導した。「モロトフ」はмолот(モロト、ロシア語で「ハンマー」という意味)に由来するペンネームであり、本名はヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・スクリャービン(ロシア語: Вячеслав Михайлович Скрябин)。作曲家のアレクサンドル・スクリャービンと直接の血縁関係はない。
1930年代以降唯一、スターリンに対して革命時代の愛称「コーバ」を使うことの許された人物であり、スターリンも彼のことを「モロトシヴィリ」「モロトシュテイン」といったあだ名で呼んだ。妻はユダヤ人の仕立屋の娘であり、ウクライナ共産党の書記や交通人民委員を務めたポリーナ・ジェムチュジナ。孫にKGB長官の補佐官を務めた政治評論家ヴャチェスラフ・ニコノフがいる。
1890年3月9日、ロシア帝国のヴャトカ県ヤランスク市クカルカ村(現在のキーロフ州ソヴィェツク)で生まれた。父ミハイルは領地管理人、母アンナは裕福な商家の出という裕福な家庭に育った。1906年にロシア社会民主労働党に入党し、ボリシェヴィキのメンバーとなった。1909年、カザン工業学校在学中に逮捕され、ヴォログダに流刑となる。1911年、刑期を終えてペテルブルク高等専門学校に入学した後、再びイルクーツク県に流刑された。1912年に創刊された党機関紙『プラウダ』には編集書記として参加し、この頃から「モロトフ」の名を使い始める。このほか「ジャージャ」(伯父)や「ミハイロフ」というペンネームも用いた。
外務人民委員時代のモロトフ
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生年月日 | 1890年3月9日 |
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出生地 | ロシア帝国、ヴャトカ県ヤランスク市クカルカ村 |
没年月日 | 1986年11月8日(96歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
出身校 | ペテルブルク高等専門学校 |
前職 | 革命家 |
所属政党 |
ロシア社会民主労働党 ロシア共産党(ボリシェヴィキ) ソビエト連邦共産党 |
配偶者 | ポリーナ・ジェムチュジナ |
サイン | |
第3代ソビエト連邦人民委員会議議長
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在任期間 | 1930年12月19日 – 1941年5月6日 |
書記長 | ヨシフ・スターリン |
ソビエト連邦外務人民委員
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在任期間 | 1939年5月3日 – 1946年3月15日 |
首相 |
ヴャチェスラフ・モロトフ ヨシフ・スターリン |
ソビエト連邦外務大臣
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在任期間 | 1946年3月19日 – 1949年3月4日 |
首相 | ヨシフ・スターリン |
ソビエト連邦外務大臣
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在任期間 | 1953年3月5日 – 1956年6月1日 |
首相 |
ゲオルギー・マレンコフ ニコライ・ブルガーニン |
ソビエト連邦国家管理大臣
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在任期間 | 1956年11月21日 – 1957年6月29日 |
首相 | ニコライ・ブルガーニン |
反応