ゲオルギー・ジューコフ
ゲオルギー・コンスタンチーノヴィチ・ジューコフ(ロシア語: Георгий Константинович Жуков, ラテン文字転写: Georgy Konstantinovich Zhukov、1896年12月1日 – 1974年6月18日)は、ソビエト連邦の軍人、政治家。ソ連邦元帥まで昇進した。
ジューコフ :包囲されています。
スターリン :これからどうするつもりだ?
ジューコフ :ブジョーンヌイ将軍のところに行ってみます。
モスクワ近郊のカルーガ県(当時のモスクワ州内)マロヤロスラヴェツ郡ウゴツコ・ザヴォーツカヤ郷、ストレルコフカ村の、農閑期には行商に出る半農半商の家庭に生まれた。父コンスタンチンは靴職人で、母ウスチーニャは農業をしていた。ジューコフという姓は甲虫を意味するジュークに由来する。ジューコフは自身の回顧録で母が35歳、父が50歳の時に再婚したと記している。一方でジューコフの末娘マリーヤの記録だとジューコフの父は41歳、母は26歳だった。ジューコフは次男であり、2歳上の姉がいた。彼が5歳の時に弟のアレクセイが生まれたが、1年もしないうちに死んだ。ジューコフ一家は深く悲しみ、ロシア正教会の洗礼を受けた。マリーヤによるとジューコフは正教信者であり、戦場にでる時は配下の兵士に「神とともにゆかん」と唱えたという。ジューコフが生まれたカルーガ県は中央産業地帯と呼ばれ、農業よりも商業が盛んだった。父コンスタンチンは仕事に恵まれず、凶作の日は近所の人にシチューをめぐんでもらい飢えをしのいだ。ジューコフは3年間の初等教育を優秀な成績で卒業し、母はお祝いにシャツを、父は新しい靴をプレゼントした。卒業後ジューコフはモスクワで毛皮職人を営む叔父ミハイルの下で修行をした。1日12時間の過酷な労働であり、先輩の職人からしょっちゅう殴られたが、ジューコフはよく働き時間を作って夜学に通い勉学に励んだ。自習仲間だった従兄弟のアレクサンドルからドイツ語を学び、ドイツ語の知識は後に軍人としての責務を果たす上で大いに役立った。1914年には見習いを卒業し、3人の少年を使いそれなりに金を稼ぐようになった。ジューコフは自身の回顧録で若い頃は政治に関心がなく、毛皮職人の間ではそれが当たり前だったと記している。1914年第一次世界大戦が勃発するとジューコフはアレクサンドルと共に軍に志願した。二人は毛皮職人の仲間と話し合い徴兵の年齢まで待つことに決めた。1915年夏ジューコフは軍に招集され、第5予備騎兵連隊に配属された。9月に連隊はウクライナのハリコフに移動して、第10騎兵師団に合流した。ジューコフはそこで騎兵としての訓練を受けた。1916年春に騎兵の養成課程を終え、8月にドニエストル川流域に派遣された。
ジューコフは前線に到着する前に爆撃を受けたが、ドイツ人士官を捕えた功績で聖ゲオルギー十字勲章を授与された。ドイツ語が堪能だったジューコフはドイツ兵を捕らえる特殊な任務に従事した。10月には偵察中に地雷で乗馬を吹き飛ばされ、ハリコフの病院に入院、2個目の聖ゲオルギー十字勲章を手にした。
スターリン :それで、ブジョーンヌイの司令部の位置はわかっているのか?
ジューコフ :いいえ、だが、さがしてみます
生誕 |
1896年12月1日 ロシア帝国 カルーガ県 ストレルコフカ |
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死没 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国、モスクワ |
1974年6月18日(77歳没)
所属組織 |
ロシア帝国陸軍 赤軍 ソ連地上軍 |
軍歴 | 1915年 – 1957年 |
最終階級 | ソ連邦元帥 |
署名 |
反応