高志航
高 志航(こう しこう / ガオ ヂーハン、光緒34年農暦5月14日(1908年6月12日)[† 1] – 1937年11月21日)は、中華民国空軍の軍人、エースパイロット(撃墜数5)。原名高銘久、字は子恒。遼寧省通化市(現吉林省管轄)出身。東北空軍を経て、中央空軍戦闘機隊の指揮官として活躍。日中戦争では日本軍機への初戦果を果たした「八・一四空戦」を指揮した事で知られる。最終階級は空軍上校(大佐に相当)、死後少将。
同時期に活躍した楽以琴、劉粋剛、李桂丹とともに中国空軍の「四大金剛」と称されている 。
1907年5月14日、通化県高麗墓子(現:通化市通化県大都嶺郷繁栄村)にある貧農の家庭にて、8人兄弟の長男として生まれる。父は高景文、母は李春英。農作業を手伝っていたため、9歳から三棵楡樹小学に入学した。通化は交通の要所であり、教師から義和団事件で東三省に出兵したロシア兵の蛮行を聞かされたり、日本の官憲に追われていた朝鮮人活動家を父が自宅に匿ったこともある。13歳の時、奉天指南中学入学。城内の学校まで毎日行李を背負って400里以上の道を歩いて登校した。その後奉天中法中学に転校し、17歳にて卒業[† 2]、官費で貧しい家計を支えるため、両親を説得して郭松齢が東三省陸軍講武堂西院に設置した東北陸軍軍官教育班に入隊。当初砲術を学んだ。その後28名からなるフランス留学班に抜擢され、モラーヌ・ソルニエ社がパリ近郊に保有した民間航空学校[† 3]に入校することとなった。だが、同校は身体条件が極めて厳しく、高ら18名が入学許可、葛世昌[† 4]ら残る10名はクロトワ・コーデュロン飛行学校で学んだ[† 5]。初級訓練修了後、1926年にイストルの飛行場を拠点とするフランス陸軍航空学校で飛行機の操縦を学ぶ。この時期に名前を「高志航」に改めた。卒業後は陸軍軍曹に任官され、ナンシーにある陸軍航空隊第21戦闘飛行隊(35連隊とも)で実習を行った。
中央航空学校同学録 (1935)
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渾名 | 空軍戦魂、東北飛鷹 |
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生誕 |
1908年6月12日 清 遼寧省通化市(現吉林省管轄) |
死没 |
中華民国(国民政府) 河南省周家口 |
1937年11月21日(29歳没)
所属組織 |
東北空軍 中華民国空軍 |
軍歴 | 1923年 – 1937年 |
最終階級 | 上校(大佐に相当)、死後少将 |
反応