猪俣甚弥
猪俣 甚弥(いのまた じんや、1916年(大正5年)4月30日 – )は、日本の陸軍軍人。陸軍中野学校1期生で、ポツダム宣言受諾後の皇統護持作戦に参加し、「本丸」計画の責任者であった。最終階級は陸軍少佐。
福島県若松市(現会津若松市)に生まれる。1934年(昭和9年) 会津中学を卒業し二高に進学したが、学費滞納で中退する。1937年(昭和12年)歩兵第29連隊に入隊し、翌年には歩兵学校で通信を専攻した。
この1938年(昭和13年)7月には、秋草俊や岩畔豪雄らが中心になり陸軍中野学校の前身である後方勤務要員養成所が設立される。猪俣は騎兵学校の推薦[* 2]で、養成所の入所試験に合格した。事前の知識としては情報関係の仕事である程度しかなく、入所後に長期海外勤務要員と知らされる。猪俣ら1期生は20名(卒業は18名)で、陸軍士官学校50期の待遇を受けた。猪俣は7月に少尉に任官している。養成所の教育は秘密諜報戦に応ずるものであったが、まず軍隊式動作が矯正された。夕方からは自由時間や外泊が許されるなど自発性が尊重され、教材としては日露戦争に際し欧州方面での工作活動を行った明石元二郎の復命書が重視された。なお猪俣らは偽名を作っているが、戸籍の抹消はされていない。
ハルピンにて撮影
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生誕 |
1916年4月30日 福島県 若松市 |
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所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1937 – 1945[* 1] |
最終階級 | 陸軍少佐 |
反応