岡村徳長
1897年(明治30年)に高知県安芸郡井ノ口村(現在の安芸市井ノ口)で生まれる。海軍兵学校45期。岡村は天衣無縫の好漢でその奇行で海軍内でも有名だった。航空機開発に情熱を燃やし大西瀧治郎中将に心酔していた。
横須賀航空隊教官時代、計器飛行の実験中に、主翼が海に接触し危うく一命を落としかけた。
1928年(昭和3年)2月29日、悪天候の中、搭乗していた一三式艦上攻撃機が佐賀県鹿島付近に墜落・炎上し、岡村は顔に大火傷を負った。この事故は、帝国飛行協会が目指していた太平洋横断飛行計画にともなう操縦士の飛行訓練の最中に発生したもので、同乗していた後藤勇吉は即死した。
1932年(昭和7年)に起きた五・一五事件では、事件同調者の一人であった。
1935年(昭和10年)、航空の発展を目指し、自ら申し出て予備役に編入し、中島飛行機に入社。
しかし、会社幹部と衝突したのか、1,2年後に退職する。
大西ら先輩や有人の資金援助などを受け、自ら「富士航空」という航空機会社を設立し、津田英学塾を出た妹の清子とともに会社を経営した。
日中戦争の悪化から太平洋戦争開戦を予見し、海軍当局や知人に飛行機の改良や増産を訴え、昭和16年、会社を他人に任せ充員召集を受けた。
反応