小柳胖
新潟県新潟市に生まれ、早稲田大学政治経済学部経済学科を卒業後、同盟通信社(現共同通信社)などを経て、新潟日報社編集局長の時に太平洋戦争に応召し、硫黄島でアメリカ軍の捕虜となると、ハワイの捕虜収容所に送られる[注 1]。
そこで情報将校ドナルド・キーン海軍中尉と親しくなり、未来の日本について語り合う。
包容力があり、太っ腹で、日本人捕虜の仲間たちから、「おやじ」や「とっつぁん」などと呼ばれていたため、捕虜収容所所長の情報将校オーテス・ケーリ海軍中尉から、幡随院長兵衛の一字を採って「幡さん」と名付けられる[10][注 2][注 3]。
反戦の日本人捕虜たちと、オーテス・ケーリの対日宣伝活動に協力すると、愛国の日本人捕虜たちから、「親米派」や「売国奴」などと罵声を浴びせ掛けられてデモも行われたため、真珠湾のほとりに設置されたパールシティ収容所に移る[14]。
反応