柿本権一郎
柿本 権一郎(かきもと ごんいちろう、1891年3月18日 – 1977年2月28日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。
農業・柿本助五郎の息子として生れる。五条中学校を経て、1913年12月、海軍兵学校(41期)を卒業。2年次に学術優等章を授与された。翌年12月、海軍少尉任官。1920年11月、海軍水雷学校高等科を卒業し、第2水雷戦隊付兼参謀などを経て、1925年11月、海軍大学校(甲種23期)を卒業した。
「比叡」通信長、佐世保鎮守府付、「霧島」通信長、軍令部出仕(第2班第4課)、水雷学校教官、海軍通信学校教官、海軍技術研究所員、艦政本部出仕、欧米出張、軍令部出仕(第4班第10課)などを経て、1935年11月、海軍大佐に進級。この間の1929年に日本初の暗号機械の製作に成功し、この機械はロンドン海軍軍縮会議で使用された。
生誕 |
1891年(明治24年)3月18日 日本、和歌山県 |
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死没 | 1977年(昭和52年)2月28日 |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1913年(大正2年) – 1944年(昭和19年) |
最終階級 | 海軍少将 |
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