笠井智一
笠井 智一(かさい ともかず、1926年(大正15年)3月8日 – )は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍上等飛行兵曹。太平洋戦争におけるエース・パイロット。
1926年(大正15年)3月8日、兵庫県多紀郡篠山町(現・丹波篠山市)の農家に男3人女2人の兄弟の末っ子として生まれた。体は大きく運動神経も良かったが、乗り物に弱くバス酔いする体質であった。鳳鳴中学2年の時、母校の先輩であり渡洋爆撃で知られていた小谷雄二大尉の帰郷講演を聞いて感動し海軍航空隊を志す。中学4年の時、甲種予科練に合格する。同期生に神風特別攻撃隊「敷島隊」隊員となった谷暢夫がいる。
1942年(昭和17年)4月1日、甲飛10期生として土浦空に入隊。1943年(昭和18年)5月、予科練修了。第32期飛行練習生として霞ヶ浦空千歳分遣隊で初歩飛行訓練を受ける。10月31日、飛行練習生教程修了。11月1日二飛曹に昇進。11月3日、徳島空付。戦闘機専修課程を受ける。通常の戦闘機操縦課程は約6か月間行われていたが、当時は戦争で搭乗員不足が深刻化しており、甲飛10期生は20日間で卒業を言い渡された。
1944年、二飛曹時代
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生誕 |
1926年3月8日 兵庫県篠山町 |
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所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1942 – 1945 |
最終階級 | 海軍上等飛行兵曹 |
反応