横井忠雄
横井 忠雄(よこい ただお、1895年(明治28年)3月6日 – 1965年(昭和40年)9月10日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍少将。大分県大分市出身。
旧制東京府立第4中学校より海軍兵学校第43期入校。入校時成績順位は100名中第9位、卒業時成績順位は96名中第5位。横井はドイツ駐在経験がある親独派として知られ、軍令部甲部員在職中は日独伊三国軍事同盟賛成の急先鋒であった。しかし2度目の在勤では反ナチスとなり、その意識を隠そうともしなかったため、やがてドイツ側から好ましからぬ人物(ペルソナ・ノン・グラータ)としてドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップから大島 浩日本大使を通じ、暗に横井の交代を求めるメッセージが届けられ、横井は駐在武官を交代させられ伊号第八潜水艦に便乗して帰国した。後任は小島秀雄。
なお大島とは不仲であり、三国同盟軍事委員として在独中の野村直邦とは大喧嘩を演じている。終戦直前に第6特攻戦隊司令官に就任した。
生誕 |
1895年3月6日 日本 大分県 |
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死没 | 1965年9月10日(70歳没) |
所属組織 | 日本海軍 |
軍歴 | 1915 – 1945 |
最終階級 | 海軍少将 |
反応