和田操
和田 操(わだ みさお、1889年12月6日 – 1981年11月19日)は、日本海軍の軍人。最終階級は海軍中将。
和田音五郎陸軍大佐の長男として東京で生れる。早稲田中学校を経て、1911年7月、海軍兵学校(39期)を卒業。席次四番で恩賜品を拝受。1912年12月、海軍少尉に任官。第5期航空術研究委員、「若宮」乗組、横須賀航空隊付、艦隊航空隊付など搭乗員として経験を積んでいたが、事故で重傷を負い技術系士官として歩むこととなった。1918年1月から海軍大学校選科学生として東京帝国大学工学部に進む(専攻は航空機)。
その後、横須賀工廠検査官、欧米出張、広工廠航空機部員、欧米出張、海軍航空本部技術部員、欧米出張、航空本部技術部長などを歴任し、1937年12月、海軍少将に進級。
海軍航空技術廠長となり、1941年10月、海軍中将に進級し太平洋戦争を迎えた。さらに航空本部長を勤め、1945年11月、予備役に編入された。その後、公職追放となる。
生誕 | 1889年12月6日 |
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死没 | 1981年11月19日(91歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1912 – 1945 |
最終階級 | 海軍中将 |
反応