蔵原惟繕
蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日 – 2002年12月28日)は、日本の映画監督。文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる。
父親は鈴木商店の傍系会社・日沙商会の農業技師で、ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)のゴム園で働いているとき、当地で出生。小学時に日本に戻り東京の田園調布小学校に入学[注 1]。小学4年のとき、兵庫県神戸市に移り、御影第三小学校に転校。関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生となる。入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃[注 2]。
戦後復員し、家族の疎開先、徳島県海部郡川上村で農作業をした後、日本大学三島予科に入学、のち日本大学芸術学部映画科に進んだ。大学在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む。1952年、大学卒業と同時に松竹京都撮影所に入社し、助監督を務める。1954年日活の製作再開で同社に移り、滝沢英輔、中平康、鈴木清順らの助監督を務める。
1957年、石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』で監督デビュー。大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴びる。以後、石原裕次郎、浅丘ルリ子の主演作を数多く撮る。
1967年フリーとなる。以降、石原プロモーションの『栄光への5000キロ』をはじめ、『キタキツネ物語』、『青春の門』、『海へ 〜See you〜』などの大作、話題作を次々と送り出す。
キネマ旬報社『キネマ旬報』430号(1967)より
|
|
本名 | 蔵原 惟繕(同じ) |
---|---|
生年月日 | 1927年5月31日 |
没年月日 | 2002年12月28日(75歳没) |
出生地 | ボルネオ島 サラワク王国クチン市(現・ マレーシア サラワク州クチン) |
死没地 | 日本 神奈川県横浜市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | アクション、紀行 |
活動期間 | 1952年 – 2002年 |
配偶者 | 宮城野由美子(1956年 – 2002年) |
著名な家族 |
いとこおじ(蔵原惟人) 実弟(蔵原惟二) |
反応