ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク
ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルク(*1843年6月10日 グラーツ – †1900年10月9日 ヴィースバーデン)はオーストリアの作曲家・指揮者・音楽教師。称号も含めた公式な氏名は、Heinrich Picot de Peccaduc, Freiherr von Herzogenberg(またはHeinrich Freiherr von Herzogenberg)で、フランス貴族の末裔である。
ウィーンで法学と音楽を学び、作曲をオットー・デッソフらに師事。当初はワーグナーの音楽に耽溺したが、バッハ研究を通じて古典派音楽に強い愛着を示すに至り、ブラームスの熱心な崇拝者となった。ブラームスのピアノの弟子エリザベート・フォン・シュトックハウゼン(Elisabet von Stockhausen, *1847年4月13日 パリ – 1891年1月7日 サンレモ)と結婚。ブラームスとヘルツォーゲンベルク夫妻の往復書簡は、ブラームスのその手の文書の中で最も愉快な例となっている。1874年にバッハ研究者(音楽学者)フィリップ・シュピッタとともに、ライプツィヒ・バッハ協会(Leipzig Bach-Verein)を創設。これはバッハのカンタータの復興に関わる組織であった。ヘルツォーゲンベルクは、10年間にわたって同協会の芸術監督をつとめ、この間にエセル・スマイスらの作曲の門人を育成した。1885年からベルリン高等音楽院作曲科教授に就任し、その立場から、青年レイフ・ヴォーン・ウィリアムズにマックス・ブルッフへ師事するよう助言している。1900年死去。最晩年は関節の壊死により車椅子に乗って過ごした。
基本情報 | |
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生誕 | 1843年6月10日 |
出身地 | オーストリア帝国 グラーツ |
死没 | 1900年10月9日(57歳没) |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家・指揮者・音楽教師 |
反応