ベニグノ・ラモス
ブラカン州で教育を受けたラモスは、同州で教師となった のち、マニラに居を移して官途に就き、1928年までに元老院職員として昇進した。その後アメリカからの即時独立を主張するナショナリスタ党に賛同し、同党内で頭角を現していた政治家マニュエル・ケソンと親しくなるが、1930年首都で行われた教師による山猫ストをめぐって両者は対立、ラモスは党を去った。
下野後のラモスはタガログ語新聞『サクダル』(Sakdal / タガログ語で「糾弾」の意)を創刊した。やがて同紙は米軍基地撤去を含む「アメリカからの真の独立」を標榜するようになり、これを支持する人々はサクダリスタ運動(上記「サクダル」からの造語)の名の下組織化されていくことになる。そして1935年5月、フィリピン独立法施行にともなうフィリピン自治領発足前夜ついに反乱に踏み切り、参加者20000人に及んだがまもなく鎮圧され、当時外遊中であったラモスは日本への亡命を余儀なくされた。
反応