大木正夫

大木 正夫(おおき まさお、1901年10月3日 – 1971年4月18日)は日本の作曲家。

静岡県磐田郡中泉町(現磐田市)に生まれる。幼少期より尺八をたしなみ、県立静岡中学校(現・静岡県立静岡高等学校)から大阪高等工業学校(現・大阪大学)応用化学科を卒業。丸善工場に勤務するが、まもなく退職して長野県上田高女(現・長野県上田染谷丘高等学校)で教鞭をとる。やがて退職して上京し、石川義一に師事していたこともあったが、大半が独学で作曲を学んでいる。帝国音楽学校作曲科主任教授、作曲家連盟委員音楽文化協会常任理事、日本現代音楽協会の委員等に就いた。1962年、ソビエト連邦作曲家同盟の招きで間宮芳生と共に訪ソ。

戦前の作風は民族的でロマン主義的傾向が見られた。代表作である『5つのお話』『夜の思想』はワインガルトナー賞の特賞を受賞した。戦中は日本政府の要請により朝比奈隆と共に満州国へ渡り、交響詩『蒙古』は朝比奈と新京交響楽団により演奏され、現地で人気を博した。戦後は、戦中の体制に協力的であった自らの態度を自己批判し、信州の浅間温泉に10年ほど居を移した。同地で自責の念にかられて宗教的救済を求め、『古代彫刻に寄せる6つの前奏曲と終曲』(1948年)を発表した。その後も楽壇からは距離を置きひっそりと活動し、左派の政治的立場から、交響曲第5番『ヒロシマ』、カンタータ『人間をかえせ』、男声合唱曲『わだつみのこえ』、交響曲第6番『ベトナム』など反戦的な作品を残した。

早坂文雄は1942年の『音楽公論』第2巻第5号において、「大木正夫論」として大部の評論を書いた。その後1956年、富樫康は前述の早坂の評も踏まえて、大木作品について以下のように評している。「彼はまれにみる情熱の人であり主観的観念が強く、その理想主義、浪漫主義からは肉体的苦悩が生々と感じられて悲壮感を与える。こういった想念的世界は特に初期の作品に香しき夢として音化されているが、その後の作品においてはその上に一つの客観が生んだ芸術の民族的傾向が加わり、日本の古典の世界、万葉の世界、神話等より具体的素材を求めんとし、以前のドラマチックな作風よりネオクラシックな作風へと傾いてきた。」

反応