新間寿

過激な仕掛け人」の異名を持ち、昭和期の新日本プロレスを語るのに欠かすことのできない人物である。実父は東京プロレスを立ち上げ、新日本プロレス役員も務めた新間信雄。息子の新間寿恒もユニバーサル・プロレスリング(後にFULLと改称)を立ち上げるなどプロレス業界の裏方で働いている。

1935年、東京都新宿区にて生まれる。
中央大学に入学後、柔道部に所属する傍ら、強い男に憧れ、当時日本橋人形町にあった日本プロレスの道場にボディビル練習生として通う。胸と腕の筋肉を大きくしたかった新間は力道山から「3ヵ月間、オマエはベンチプレスだけをやれ」と命じられ、当初40kgも上がらなかったウエイトが55kgまで上がるようになった(当時はベンチプレスが一般に浸透していなかった)。この時後に新間の人生を左右する事となる豊登と知り合う。

日本プロレスの練習生ではあったが、昭和の巌流島では自身が柔道を経験していたということもあって木村政彦の方を応援していた。大学卒業後、大手化粧品メーカーのマックスファクターでのサラリーマン生活を経て、1966年、豊登の誘いをうけて、当時、寺の住職を務めていた実父の信雄と共に東京プロレスの立ち上げに携わる。そこからアントニオ猪木との関係が生まれ、東京プロレス倒産を理由に父から勘当を言い渡され、小来川鉱山鉱夫として4年間に渡って極寒の僻地で労働に従事。その後東京へ戻り、ダイナパワーという自動車の燃費を向上させる器具を売るセールスマンを行い、豊登とともに全国行脚を行っていたが、豊登は新間が稼いだ金でギャンブルを行っていた。そして寿屋パン店経営を行い、またもや働きながら豊登の面倒を見た

反応