アッリーゴ・ボーイト

アッリーゴ・ボーイト│無料動画│220px arrigo boito

アッリーゴ・ボーイト(Arrigo Boito, 1842年2月24日 – 1918年6月10日)は、イタリアの詩人、小説家、台本作家、音楽評論家、オペラ作曲家である。今日ではヴェルディなどのオペラ台本作家として、また自身のオペラ「メフィストーフェレ(英語版)」によって知られている。

当時まだオーストリア帝国領だったパドヴァにて、イタリア人画家シルヴェストロ・ボーイトとポーランド人貴族の未亡人ユーゼファ・ラドリンスカ(イタリア名ジュゼッピーナ)との間に生まれる。ボーイトの生後まもなく両親が別れたため、母に育てられる。早くから文学と音楽に興味を示し、ミラノ音楽院に入学したボーイトはすぐに頭角を現し、これも後に有名なオペラ作曲家・指揮者となるフランコ・ファッチョとともに1861年、給費留学生としてパリに赴く。当地でヴィクトル・ユーゴー、ベルリオーズ、ロッシーニそしてヴェルディの知遇を得たという。まだ20歳にしてボーイトは、ヴェルディ「諸国民の讃歌」の作詞を行うほどの俊英だった。

しかし、大作曲家ヴェルディと若きボーイトとの関係はその後、敵対的といっていいほどまでに冷却化する。ヴェルディは明らかにボーイトをライヴァル視し始めたし、ボーイトやファッチョはヴェルディその他のイタリア人作曲家を、因習に囚われた無知な者たち、と公然と批判、リヒャルト・ワーグナーの音楽を賞揚したのである。この頃のボーイトらがミラノを中心にして行った音楽・文芸・絵画・彫刻など総合的な芸術運動は「スカピリアトゥーラ(英語版)」(Scapigliatura=蓬髪主義)として知られている。1860年代のボーイトは先鋭的な若手詩人・評論家、ワーグナーのオペラのイタリアにおける翻訳・紹介者として有名だった。

一方でボーイトのオペラ創作意欲は止みがたく、1868年にその最初のオペラ「メフィストーフェレ」を完成する。ゲーテの有名な小説「ファウスト」を原作に、自ら台本も書いたこのオペラの初演は、イタリア・オペラの総本山ミラノ・スカラ座で56回にも及ぶリハーサルの末行われた。しかしそれは、観客の口笛と怒号、劇場内外での騒擾の渦巻く惨憺たる大失敗であった。2夜目にして、警察は混乱防止の名目で上演禁止命令を出すに至る。長大な演奏時間、ボーイト自身による指揮の稚拙さ、曲そのものもワーグナーの稚拙な模倣と考えられたこと、などが原因と考えられている。このオペラは1876年と1881年の大改訂によって、今日ではしばしば公演され、また録音もされるオペラになっている。

基本情報
生誕 (1842-02-24) 1842年2月24日
出身地 オーストリア帝国
ロンバルド=ヴェネト王国、パドヴァ
死没 (1918-06-10) 1918年6月10日(76歳没)
学歴 ミラノ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 詩人、小説家、作曲家、台本作家、音楽評論家

反応