アレクサンドル・ボロディン

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アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(Alexander Porfiryevich Borodin, Алекса́ндр Порфи́рьевич Бороди́н, 1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) – 1887年2月15日/2月27日)は、帝政ロシアの作曲家、化学者、医師。ロシア音楽の作曲に打込んだロシア5人組の一人である。

サンクトペテルブルクにて、グルジアのイメレティ州のタヴァディ(日本では王子、公爵と訳される事があるが、正確ではない。正確には大領主というニュアンスが最も近い。
グルジアの貴族制度タヴァディ・アズナウリ制度のうち、貴族つまり領主一般を意味するアズナウリ、大領主を意味するタヴァディがある。グルジア王国が複数の王国と複数の公国に分裂した15世紀以降も各王国の王家は、引き続きバクラチオニ家であり、19世紀初頭まで存在したイメレティ王国も同様である。また、イメレティ王国はグルジア王国から分裂直後から、長らくオスマン帝国の侵略を度々受け、ロシア帝国に1810年に占領・併合された頃は、実質的にオスマン帝国の支配下にあった。ちなみに、タヴァディの権限の強さは各王国・時代により異なる)のルカ・ステパノヴィチ・ゲデヴァニシヴィリ(ロシア名ゲディアノフ。62歳)と既婚のロシア女性エヴドキヤ・コンスタンティノヴナ・アントノヴァ(25歳)の非嫡出子として生まれる。ゲデヴァニシヴィリはボロディンを実子として戸籍登録せず、農奴の一人ポルフィリ・ボロディンの息子として登録した。しかしながらボロディンは、ピアノの稽古を含めてすぐれた教育を受け、化学を専攻した。転じて、サンクトペテルブルク大学の医学部に入る。最優秀で卒業後、陸軍病院に勤務、24歳の時に医学の会議の出席のためにヨーロッパに長期出張した。この頃、ムソルグスキーと知り合い、シューマンの曲を紹介され、興味を持つ。ピサ大学では臭化ナトリウムを用いた有機窒素の定量法を発見した。26歳の時、ハイデルベルク大学(化学)入学。元素理論を確立したメンデレーエフと知り合う。卒業後はサンクトペテルブルク大学医学部生化学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多大な業績を残した。
作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかった。

1869年にバラキレフの指揮によって交響曲第1番が公開初演され、同年ボロディンは交響曲第2番に着手する。この新作交響曲は、初演時には失敗したが、1880年にフランツ・リストがヴァイマルでドイツ初演の手筈を整え、ボロディンの名をロシアの外に広めた。

基本情報
生誕 1833年11月12日 (グレゴリオ暦)
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
死没 (1887-02-27) 1887年2月27日(53歳没) (グレゴリオ暦)
ロシア帝国 サンクトペテルブルク
学歴 サンクトペテルブルク大学医学部
ジャンル 国民楽派
職業 作曲家

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