イグナーツ・フリードマン

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イグナーツ・フリードマン(Ignaz Friedman, 1882年2月13日 – 1948年1月26日)はポーランド出身のユダヤ系のピアニストで作曲家。ハロルド・ショーンバーグのような音楽評論家や、セルゲイ・ラフマニノフらのピアニスト仲間から、レオポルド・ゴドフスキーやモーリッツ・ローゼンタール、ヨーゼフ・ホフマン、ジョセフ・レヴィーンらと並ぶ、当時の至高のヴィルトゥオーゾとして一様に高く評価されていた。名については、ポーランド語のイグナツィ(Ignacy)や英語のイグナス(Ignace)を用いる場合がある。なお本名は、ザロモン(またはゾロモン)・イザーク・フロイトマン(Solomon (Salomon) Isaac Freudman(n), イディッシュ語でシュロイメ・イツホク・フレイドマンשְׁלֹמֹה יִצְחָק פֿרײדמאַן )であった。

ポドグジェ(Podgórze)において音楽家の家庭に生まれる。クラクフでフローラ・グジヴィンスカ(Flora Grzywinska)にピアノを師事し、少年時代に神童として認められる。フーゴー・リーマンと有名なピアノ教師のテオドール・レシェティツキーに師事した後、フェルッチョ・ブゾーニのマスタークラスで研鑽を積んだ。レシェティツキーの助手も務めている。クラクフ大学で哲学を修め、教育の仕上げに作曲と音楽学を学んだ。1904年に(3つのピアノ協奏曲を演奏して)ウィーンにデビューし、世界的な活動に入る。ある集計によるとフリードマンは合計2800回以上の演奏会を行なっており、ヴァイオリニストのブロニスワフ・フーベルマンとたびたび開いた二重奏の演奏会もその中に含まれる

第2次世界大戦が勃発した時、フリードマンはヨーロッパに滞在していたが、どうにか脱出すると、1940年にオーストラリアで演奏旅行を行なった。その後もヨーロッパには戻らずに、シドニーに定住して歿年までオーストラリアに留まった。1943年に、左手の神経炎のために演奏活動から引退を余儀なくされた。1948年の「オーストラリアの日」に他界している。

基本情報
生誕 (1882-02-13) 1882年2月13日
出身地 ポーランドポドグジェ
死没 (1948-01-26) 1948年1月26日(65歳没)
学歴 クラクフ大学
ジャンル クラシック音楽
職業 ピアニスト
担当楽器 ピアノ

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