ウィリアム・ラーンド
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ウィリアム・ラーンド(William Larned, 1872年12月30日 – 1926年12月16日)は、アメリカ・ニュージャージー州サミット出身の男子テニス選手。フルネームは William Augustus Larned (ウィリアム・オーガスタス・ラーンド)という。「ビル・ラーンド」(Bill Larned)とも呼ばれる。コーネル大学卒業。右利きで、体格は身長180cm、体重77kg。
全米選手権男子シングルス優勝7回は現在も大会歴代1位タイ記録。グランドスラム優勝7回は1925年にビル・チルデンに抜かれるまでは歴代1位タイ記録だった。アメリカ人のテニス選手として、最も早くウィンブルドン選手権に遠征した選手の1人でもあり、1896年と1905年の2度ウィンブルドンに出場した。1900年から始まった男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」においても、黎明期のアメリカ・チームをリードした。彼のテニスは、サイドラインぎりぎりに決める正確なグラウンド・ストロークを中心に、攻撃的なオールラウンド・プレーを得意にした。
ラーンドは1891年から全米選手権に出場し始め、1892年に初めて男子シングルスの「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)に進出した。初期の全米選手権は、「チャレンジ・ラウンド」から「オールカマーズ・ファイナル」(大会前年優勝者とチャレンジ・ラウンド勝者で優勝を争う)への流れで優勝者を決定した。ラーンドは最初のチャレンジ・ラウンド決勝でフレッド・ホビーに敗れ、大会前年優勝者オリバー・キャンベルへの挑戦権を逃した。1894年から1896年まで、彼は3年連続でチャレンジ・ラウンド決勝の壁にぶつかる。1896年にウィンブルドン選手権に初遠征し、男子シングルスのベスト8に入った。最初のウィンブルドン準々決勝で、ラーンドはハーバート・バデリーに 6-3, 6-3, 4-6, 4-6, 3-6 の逆転負けを喫した。イギリス人以外の選手がウィンブルドンの男子シングルスで8強以上に進んだのは、1885年のジェームズ・ドワイト(アメリカ、ベスト4入り)、1890年のディーン・ミラー(アメリカ)に続く3人目の快挙であった。
1898年に起きた米西戦争で、ラーンドはセオドア・ルーズベルト(後のアメリカ第26代大統領)が結成した志願兵組織「ラフ・ライダーズ」(Rough Riders)の一員としてキューバに赴いた。テニス選手では、全米選手権で1893年・1894年・1896年・1897年に4勝を挙げたロバート・レンも「ラフ・ライダーズ」に参加した。ラーンドはその従軍期間中にリウマチ熱に感染し、これが彼の後の人生に暗い影を落とすことになる。
ウィリアム・ラーンド
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基本情報 | |
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フルネーム | William Augustus Larned |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | 同・ニュージャージー州サミット |
生年月日 | 1872年12月30日 |
没年月日 | 1926年12月16日(53歳没) |
死没地 | 同・ニューヨーク |
身長 | 180cm |
体重 | 77kg |
利き手 | 右 |
バックハンド | 片手打ち |
殿堂入り | 1956年 |
ツアー経歴 | |
デビュー年 | 1890年 |
引退年 | 1911年 |
4大大会最高成績・シングルス | |
全英 | ベスト8(1896・1905) |
全米 | 優勝(1901・02・07・11) |
優勝回数 | 7(米7) |
4大大会最高成績・ダブルス | |
全英 | ベスト4(1905) |
国別対抗戦最高成績 | |
デビス杯 | 優勝(1902) |
キャリア自己最高ランキング | |
シングルス | 1位 |
反応